黒田滝子
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来歴
1863年9月27日(文久3年8月15日)に江戸有数の材木商として知られる信濃屋・丸山伝右衛門の長女として生まれる[1]。
日本橋の鰹節問屋にんべん[注釈 2]への嫁入り話が進んでいたが、新邸祝いに来た黒田清隆伯爵に見初められる。黒田は当時40歳目前であり、後妻に10代の滝子は若過ぎると同席していた先輩格の五代友厚も止めたが、黒田はそれで諦めるような男ではなかった。数日後、酒に酔った黒田はピストルを手に丸山邸に乗り込むと、滝子を馬車に押し込んで麻布の自邸へ連れ帰ったという[2]。父・伝右衛門は黒田が先妻を斬り殺した話[3]を知っていたので、無理に取り返せば親子共に命が危ないと考えて思い留まったとされる[注釈 3]。
1880年(明治13年)12月10日、17歳の滝子は40歳の黒田清隆と結婚式を挙げる。仲人は安田定則が務めた。伯爵夫人としての生活に慣れると、洋装に身を包んで鹿鳴館などにも出入りし、英国公使のフレイザー夫人とも親しんだ。華やかな生活を送る滝子だったが、養女として黒田家に入っていた百子[注釈 4]と確執があったとされる[5]。滝子は1882年に長女の梅子を、1884年(明治17年)10月には黒田家嫡子となる清仲を出産[1]。そんな中で、1885年(明治18年)にはかつて江戸でも指折りの材木問屋と言われた父の商売が傾き、破産した[6]。
黒田は1888年(明治21年)4月から翌年10月まで総理大臣として内閣を任され、滝子も懸命に夫を支えた。しかし黒田の晩年には、滝子と華族某や歌舞伎俳優との仲が噂されるようになる。1900年(明治33年)8月に夫が死去した後は三田の邸宅でまだ幼い養女・竹子と共に暮らしたが、幇間や芸人、相撲取りなどを呼んで日々散財[注釈 5]した上に、出入りしていたセリ呉服商(呉服の行商人)の小森清助と深い仲となった[7]。そこで百子とその夫・黒木為楨や親戚らは黒田家の名誉のためとして裁判所に申し立てを行い、滝子は竹子と離されて邸宅を出た。1904年(明治37年)11月11日に滝子は黒田家から正式に離籍[8]。滝子は1906年(明治39年)12月に4つ年下の小森と結婚した[9]とされ、主の居なくなった三田の黒田邸は後に鉱山経営で知られた田中長兵衛に売却されている[10]。
また1906年(明治39年)6月の報知新聞に「40代の姥桜ながらまるで20代のように若々しく、性質は伯爵家の未亡人とは思えないほど庶民的である」といった内容が書かれた滝子の記事が掲載[8]。黒田家離籍後も近隣に住んでいたが、千葉方面へ移って行ったとも言われる。場所は不明ながら最期は施療院で亡くなったと伝えられており[11][12]、その時期は1915年(大正4年)であると読売新聞が書いている[13]。
血縁者
父・丸山伝右衛門は上野国出身。博徒より身を起こし材木商を始めた。やがて江戸の木材相場を動かすほどの豪商となったが、1885年(明治18年)に破産し店を畳む。1887年(明治20年)没した[14]。
滝子の子は梅子・清仲・竹子の3人おり、生来病弱であった清仲は父の死後爵位を継いだが1915年(大正4年)11月に31歳で早世。百子の子・清が養子として入り黒田家と爵位を継いだ。梅子(1882年1月生)は榎本武揚の長男・武憲に嫁入り[注釈 6]し、竹子(1900年1月生)[注釈 7]も成人後に伊地知貞一に嫁いだ[15][16]。
父は後援していた三代目・歌沢寅右衛門(本名・平田かね)との間に平田みき(明治4年生)という子がおり、これが後に芸を継いで四代目・歌沢寅右衛門を襲名[17]。滝子の異母妹に当たる。