龍拈寺
愛知県豊橋市にある寺院
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概要
歴史
開山
開山には2説ある。1つはかつて存在した寺院跡地に大永初年頃(1520年代初頭)に吉田(今橋)城主牧野信成が亡父古白のために休屋宗官和尚開山で開かれたという説である。今1つは享禄元年(1528年)に尾張国春日井郡大草山福厳寺(現、同県小牧市大字大草)の盛禅洞奭和尚を開山とし、城主牧野信成が亡父古白23回忌の追善のため休屋宗官和尚により始められたと言う説である。いずれの説にしても牧野信成が亡父古白入道追善供養のため休屋宗官和尚により開かれた寺である。
牧野信成は、三河国岡崎城の松平清康によって吉田(今橋)城の対岸の地である宝飯郡下地(しもじ。現、豊橋市下地町)に火を放たれたために城のある渥美郡側から豊川を渡って宝飯郡側の下地へ出陣し戦死して果て、また、当寺へ葬られた。
桶狭間の戦い後の惨劇
海道一の弓取りと謳われた今川義元は桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)で横死し、部下であった松平元康(清康の孫)は自立した。これに怒った跡継ぎの今川氏真は吉田城代小原(大原)肥前守鎮実に松平側についた人質の処刑を命じた。これを永禄4年(1561年)、当寺院口で処刑を行った。一説には串刺しと言う。埋葬されたのは寺から離れた中野新田で、後に十三本塚(処刑された人数は11~14名と説が分かれる)と名づけられたという。ただし、その十三本塚の場所は異説が多く特定が難しい[2]。
処刑された人物
徳川時代の隆盛
その松平元康も徳川家康と名を改め因縁の地の下地の聖眼寺で牧野家の金扇を馬印にし時の天皇(後陽成天皇)より征夷大将軍の宣下を受けて天下泰平の世が築かれると、三河国吉田城下で吉田山龍拈寺は隆盛を誇った。末寺36、塔頭4院を擁し、朱印25石、興徳寺20石を合わせると45石を有した。吉田三ヶ寺に数えられ、神宮寺(天台宗)・悟真寺(浄土宗)とともに三河吉田藩では代表する寺院であった。
明治以後
寺院の広さに目をつけられ、1873年(明治6年)羅漢堂を小学校に用いられた。日清戦争の時は俘虜収容所として用いられた。
1929年(昭和4年)には曹洞宗の専門僧堂が開設され、多くの修行僧を送り出した。そして、豊橋仏教会経営の幼稚園を境内に移して、1939年(昭和14年)龍拈寺の経営にした(現在の豊橋中央幼稚園、旧名は豊橋幼稚園)。
