張伯端
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若年の頃から道に親しみ、若くして科挙の勉学をし、儒・仏・道の三教の典籍を渉猟し、刑法・書算・医卜・戦陣・天文・地理・吉凶死生の術まで精通していたが、金丹の法については口訣を得られず理解できずにいた。府吏を勤めていたとき、火焼文書律に触れたことにより、嶺南に遣わされた。治平元年(1064年)、龍図閣直学士の陸詵に随行して桂州へ転任した。
熙寧2年(1069年)に陸詵に随行して成都へ転任し、ついに真人(一説では劉海蟾とされる)に出会い金液還丹火候の訣を授けられて(一説では、青城丈人に出会い、金液還丹の妙道を得た)全てを理解することができた。これによって金丹が成り、本源真覚の性を究めて道を悟り、用成と改名し、紫陽と号した。
修煉が成就すると、熙寧8年(1075年)『悟眞篇』(zh)を著した。この丹経は後世に『周易参同契』と並ぶ内丹の古典となった。『金丹四百字』『玉清金笥青華秘文金宝内煉丹訣』を含めたその著作とされる丹経は道蔵に収められている。『歴世眞仙體道通鑑』(zh)巻四十九の伝によれば、その功は非常に高く、陽神を出すことができ、座して出神し、千里も離れた揚州の珍しい花を取って来たことがあったという。聚(あつ)まれば形を成し散ずれば気と成るのが陽神である。『悟眞篇』を編んだ7年後の元豊5年(1082年)、張伯端は96歳で没した。趺坐しての逝去だったという。
