李之紹
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生涯
李之紹は幼いころより明敏であったため、東平地方の李謙に学んだ[1]。その後、郷里に戻って教授を行い、名声が広まって多くの学者が集まるようになったという。1294年(至元31年)、クビライが亡くなった事により『世祖実録』の編纂が始まると、馬紹・李謙らの推薦を得て将仕佐郎・翰林国史院編修官に任命された[2]。この時、直学士の姚燧が李之紹の才能を試そうと翰林応酬の文を課したが、李之紹はこれを難なくこなしたため、喜んだ姚燧は以後重用したという[3]。
1298年(大徳2年)には祖母の病のため一時帰郷したが、しばらくして編修官に復帰し、さらに将仕郎に昇格となった。その後、1302年(大徳6年)には応奉翰林文字、1303年(大徳7年)には太常博士を歴任したが、1305年(大徳9年)に母が死去したため一時官を辞している。その後復職し、1310年(至大3年)には太常博士・承事郎、1311年(至大4年)には承直郎・翰林待制、1312年(皇慶元年)には国子司業、1316年(延祐3年)には奉政大夫・国子祭酒を歴任した。1317年(延祐4年)12月には朝列大夫・同僉太常礼儀院事に昇格となり、1319年(延祐6年)には翰林直学士と改められたが、病により帰郷した。1320年(延祐7年)には翰林直学士、1322年(至治2年)には翰林侍講学士・知制誥同修国史を歴任したが、1323年(至治3年)に病を理由に官を辞し、1326年(泰定3年)8月に73歳にして死去した[4]。
李之紹には李勗という息子がおり、果斎と号して文集を家蔵したという[5]。