森醇

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森 醇(もり あつし、1837年明治33年(1900年9月3日)は、明治時代の官僚。千葉県士族で、群馬県佐賀県山梨県などで書記官・大書記官を歴任した。従五位・勲六等。

旧千葉県士族。明治3年(1870年)頃、集議院権大主典に任じられ、明治5年頃には左院一等議生となった。明治7年には内務省七等出仕に補され、明治10年には従六位をもって工部省書記局三等属となり、同年福岡県少書記官へ転じた[1]

明治14年(1881年)頃、群馬県大書記官に転じ、同県行政の中枢を担った。この在任中、明治初期の中野秣場国有化を発端とする松ノ沢村周辺の官有地化・部分木地制度をめぐり、村落間の対立が激化した。この秣場騒動では、森自ら現地の金剛寺高崎市)に臨場し、竹槍を持った群衆に包囲され、帽子を吹き飛ばされるほどの緊迫した状況下で鎮撫に当たったと伝えられている[2]

明治15年(1882年)2月1日には、移転後の前橋高校に大書記官として臨場し、開校式を挙げた[3]。同年、大日本農会群馬支会の設立にも関与し、明治15年8月には幹事長に就任した[4]

明治17年(1884年)5月20日には、群馬県を訪れた山縣有朋を、当時の県令楫取素彦とともに高崎駅で出迎えている[5]。同年11月に発生した秩父事件では、群馬警察が事態の重大さを把握したのは11月2日になってからであり、同日、多胡郡町の折茂健吾より大書記官・森醇に報告書が提出された。森はこれを受け、山縣有朋に宛てて「只今高崎文営ヨリ一中隊出兵ス、此段御届及ブ」との緊急電報を打ち、事態収拾にあたった[6]

その後、佐賀県書記官に転じて正六位に進み、明治25年(1892年)5月5日には山梨県書記官へ転任、第一部長を兼ねた。明治18年11月19日には勲六等に叙され単光旭日章を受章している[1]

明治33年(1900年)9月2日、特旨をもって従五位に進み、翌3日に死去した[1]

脚注

参考文献

関連項目

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