郭璘
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はじめ後唐の明宗に仕え、累進して軍校となった。後晋の天福年間、奉国軍指揮使となり、数州の刺史を歴任した。開運2年(945年)、易州刺史に転じた。契丹が易州を攻撃すると、郭璘は兵士を率いて、その苦楽をともにしたので、契丹は易州を攻略できなかった。さらに州兵を率いて出撃し、たびたび勝利を得たので、検校太保を加えられた。契丹の太宗は「わたしはひとつ天下を恐れないが、この人に抑え挫かれるのを恐れる」とその側近に語ったことがあった。開運3年(946年)、杜重威が契丹に降ると、契丹は通事の耿崇美を派遣して易州の民衆を誘わせた。郭璘は民衆を抑えることができず、易州が降伏すると、耿崇美に殺害された[1]。天福12年(947年)、後漢の高祖が即位すると、郭璘は太傅の位を追贈された[2]。