事件勃発の背景の第1として挙げられるのが、建国の父であるラーマンの老齢による衰えである。独立以来のラーマンの政策は基本的にはレッセ・フェールであり、政治的には民族間(マレー人・華人・インド人)の融合政策であった。その基盤は、独立前夜から続く統一マレー国民組織(UMNO)-マレーシア華人協会(MCA)-マレーシア・インド人会議(MIC)の3党からなる国民戦線による連立政権であり、「政治はマレー人、経済は華人」という原則を建てていた。
だが、ラーマンの次の世代に当たるマハティール・ビン・モハマドらUMNO第2世代にとって、ラーマンの民族宥和政策は不満の残るものであった。先述の原則に基づけば、マレー人は経済的に常に華人に対して劣位に立たされている状況が変わらず、貧困に瀕しているという認識を持つに至る。その結果、マレー人の農村部の開発と商工業部門への参入を補助する政策を盛り込んだ第2次5カ年計画(1961年から65年)が始まった。
事件勃発の背景の第2としては、マレー人優遇政策への反発がある。公用語をめぐる問題で華人内部の対立も明らかとなっていた。
UMNOと連携してレッセ・フェールの経済政策を推進した華人はあくまでも英語教育を受けたエリート層であり、当時の華人内部においては上流階層に属する。彼らの経済政策は、中下流階層の華人住民を満足させるものではなかった。中下流層はマレー語及び英語を使うことができなかったが、マレーシアの公用語が憲法153条条項でマレー語のみと定められ、なおかつ1957年教育令において中等教育以降の華語教育の存続が不明確だったため、危機意識を持つにいたった。