お白洲
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概要
文化7年(1810年)作成の江戸南町奉行所の平面図によれば、最上段には町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず、2段に分かれた座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁(2段のうちの上側の縁側)に座ることから上者、それ以外は下縁(2段のうちの下側の縁側)に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に隣接する畳の間より上に上がることは許されず、白州に一番近い間と砂利敷の砂利の上に控えていた[1]。
「公事場」は三間に仕切られ、一番手前は3尺の板縁、その中央に1間幅3段の階段が設けられていた。三間の一番奥に町奉行が、一つ手前の間に吟味方与力と書役同心、一番白州に近い間に立合同心、白州の左右に蹲居同心がそれぞれ座して控えた[2]。
罪が疑われる容疑者は、通常、白州中央に縄尻をかけられて、縄尻を持った下男と共に、足裏をつけて座らされた。容疑者の後方左は町役人や町名主、家主が薦敷きに座り、後方の右側は原告が座った。通常、町奉行は容疑者に質問せず、吟味方与力が担当して返答内容を奉行に伝えた。しかし上記のような特定の身分の場合は、口書爪印の調書を元に奉行が直接確認を取ることもあったが、あくまでも確認であり、与力と異なる質問はしなかった。なお、容疑者は取り調べや裁判に出廷した町名主と家主に対して、毎回、日当を支払う決まりがあった[3]。
お白洲には突棒・刺股・拷問用の石抱きの石、十露盤、吊るし責め用の太縄などの6つの拷問器具が置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられ、お白州で拷問が行われることはなかった[4]。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いており、時代劇などに見られる屋外に白砂利敷の風景ではなかった。
お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている。