小西信八
日本の教育者
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生涯

1854年(安政元年)に越後で生まれる。藩医の小西善碩の次男。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業[1]後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校[2]で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。
1886年に、文部省直轄となった築地の訓盲啞院の属[3]を経て、1887年10月に東京盲啞学校教諭兼東京盲唖学校幹事に任じられた[4]。その後、東京盲唖学校長心得を経て校長[5]となる。小西は、カナモジ会で知り合っていた千葉県茂原小学校の石川倉次を熱心に誘って、築地訓盲唖院に引き入れる。ルイ・ブライユの点字を知った小西は、1887年、日本で使える点字の考案を石川に依頼した。ブライユ点字は6点であるが、日本語は文字が多く、石川は8点点字を考えた。しかし、小西は6点点字の考案を求め、1890年11月1日の点字選定会で、石川の案が日本点字として採用されることが決定した。それまで視覚障害者は、普通の文字を突起させたものを触って読むしかなく不便をかこっていたものが、容易に自由に読み書きできる文字を獲得することができたのである。この点字は京都訓盲院でも歓迎をもって迎えられ、その後広く普及することとなる。当時は戦火により失明する軍人が多かったが、小西は校内に失明軍人教習所を開き、中途失明軍人の社会復帰を助けた。
1909年に東京盲唖学校の盲聾分離が実現し、東京聾唖学校と東京盲学校が成立した。東京盲学校を町田則文にまかせ、自らは東京聾唖学校長になる。1925年(大正14年)に東京聾唖学校長を退官する。1938年(昭和13年)逝去、享年84。
年譜
栄典
著作
- 「本邦幼稚園の発生時代」(『婦人と子ども』第17巻第8号、フレーベル会、1917年8月、CRID 1050001338267479808)
- 「明治初年の盲唖教育 : 山尾庸三氏の建白書」(国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 民友社、1922年10月 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月 / 日本図書センター、1982年1月)
- 「私の監事時代」(『幼児の教育』第29巻第1号、日本幼稚園協会、1929年1月、CRID 1050845763195774592)
- 「昔がたり」(『幼児の教育』第30巻第4号、1930年4月、CRID 1050564288218977024)
- 『小西信八先生存稿集』 小西信八先生存稿刊行会編、小西信八先生存稿刊行会、1935年11月 / 大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、1997年10月、ISBN 4872366468
- 大泉溥監修 『文献選集教育と保護の心理学 明治大正期第11巻』 クレス出版、1997年2月、ISBN 4877330208
- 著書
- 『普列伯氏略伝』 普及舎、1893年7月
- 中村五六編著 『幼稚園摘葉 附普列伯氏略伝』 普及舎、1893年7月
- 岡田正章監修 『明治保育文献集 第8巻』 日本らいぶらり、1977年3月 / 日本図書センター、2011年5月、ISBN 9784284305143
- 湯川嘉津美監修 『近代日本幼児教育基本文献集 第4巻 フレーベル研究』 日本図書センター、2017年5月、ISBN 9784284308441