アクラビ首長国
From Wikipedia, the free encyclopedia
| アクラビ首長国 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| مشيخة عقربي(アラビア語) | |||||
|
画像の2がアクラビ首長国 | |||||
| 公用語 | アラビア語 | ||||
| 首都 | ビル・アフマド | ||||
| シャイフ | |||||
| 1770年 - 1833年 | アル=マフディー・イブン・アリー・アル=アクラビ | ||||
| 1957年 - 1967年 | マフムード・イブン・ムハンマド・アル=アクラビ | ||||
| 人口 | |||||
| 1946年 | 1000人 | ||||
| 変遷 | |||||
| 独立 | 1770年 | ||||
| 南アラビア首長国連邦に加盟 | 1959年 | ||||
| 通貨 | 東アフリカ・シリング南イエメン・ディナール | ||||
| 現在 | イエメン | ||||
| |||||
アクラビ首長国(アクラビしゅちょうこく、アラビア語:عقربي、ラテン文字転写:‘Aqrabī)は、南アラビアに存在した首長国(シャイフ国)である。のちにイギリスの保護国となり、アデン保護領、南アラビア首長国連邦、南アラビア連邦に所属した。
アクラビ族はビル・アフマドからラス・アムランまでの海岸線に居住し、内陸部ではビル・アフマドとワハトの間の未確定の地点まで領土が広がっていた。彼らの唯一の町、というより村はビル・アフマドであった。人口は1000程度しかおらず、小国の多い南アラビア諸首長国の中でも小さい国であった。
歴史
アクラビ族の首長たちは、1770年頃に西のラヒジュ・スルタン国から独立した。1839年にはラヒジュのスルタンとの間に協定が締結されたが、翌1840年にラヒジュがアデン(イギリスによるアデン占領によって占領されていた)へ3度目の奪還攻撃を行ったことで協定は破綻し、その後長年にわたってラヒジュとアクラビは対立した。1850年、アクラビに漂着したイギリス船のオークランド号の船員が殺害したことで、イギリスは首都のビル・アフマド港を封鎖した。1857年にアクラビの族長(シャイフ)が平和と善意の表明を行ったことでイギリスは封鎖を解除した。
1863年にはイギリスとの間に協定が結ばれ、イギリス以外の国に小アデン半島(アデン湾の西側の岬)のいかなる場所も売却・譲渡しないことが約束された。その代償として、イギリスはシャイフに3000ドルの即時支払いと毎月30ドルの支払いを約束した。
イギリス政府はこの協定の内容に満足せず、駐在官に小アデン半島の即時取得について交渉するように指示した。小アデン半島周辺への他の部族の主張などから交渉は難航したが、1869年4月2日に3万ドルで購入が成立し、シャイフの棒給は月40ドルへ引き上げられた。
1887年、ラヒジュとアクラビの間の緊張は爆発し、ラヒジュ軍は同年8月にビル・アフメドを包囲した。イギリスの駐在官が介入し、ラヒジュ軍はアウダリから撤退し、9月6日には平和が回復した。
1887年にはイギリスとの間で、アル・ヒスワとバンダル・フカムのイギリス領境界線を結ぶ海岸線の取得に関する交渉が開始された。この交渉は、1888年7月15日付の合意により満足のいく形で終了し、アクラビ・シャイフは2,000ルピーの即時支払いと引き換えに所有権を譲渡した。
1888年にはイギリスとの間に保護条約が締結され、正式にイギリスの保護国となった。
1915年にオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦して南アラビア戦線が開かれると、ラヒジュに駐屯するオスマン帝国軍はシャイフにオスマン帝国の国旗を送り付け、宮殿に掲揚するよう命じたが、シャイフはこれに応じなかった。この行為にオスマン軍は激怒し、軍隊とソマリ人の傭兵をがビル・アフメドのシャイフ宅を包囲し、シャイフをラヒジュに連行して終戦まで投獄した。アクラビの住民は難民となってアデンに逃れた。
その後オスマン帝国が敗戦しシャイフが解放されると難民となっていた住民もアクラビに帰還し、イギリスからはビル・アフメド再建のために24000ルピーが与えられた。
1931年時点でアクラビの年間総収入は約2000ルピーで、人口は約1000人であった。
アクラビは1959年に南アラビア首長国連邦に加盟し、その後1963年には南アラビア連邦に加盟した。
最期のシャイフは1967年8月28日に廃位され、同年11月のイエメン人民民主共和国(南イエメン)の建国に伴い首長国は廃止された。