ジョン・ムーア・アリソン
アメリカ合衆国の外交官
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人物・略歴
カンザス州ホルトン出身。1927年ネブラスカ大学を卒業、大学時代に極東問題に関心を持ち、ラドヤード・キプリングの作品に傾倒したこともあり、1927年に訪日。二年間、旧制小田原中学校、および旧制厚木中学校で英語教師として教鞭をとる。その後舞鶴の海軍機関学校で英語教師を務めたのち、ゼネラルモーターズ上海支社での勤務を経て、1930年に国務省に入省する。日本大使館での語学研修を経て、日本・中国の各地に勤務、在大阪領事として太平洋戦争の開戦を迎え、1942年帰国する。
なお、南京領事時代に、日本軍が南京を占領したとき、日本軍の下士官がアリソンを殴打するという、(アリソン殴打事件)(1938年1月26日)が起きた。
戦後もアジアに関するキャリアを歴任し、1946年10月28日より国務省日本部で副部長[1]、1947年10月5日より国務省北東アジア部長[1]、1948年11月1日より国務省極東局で副局長[1]、1949年10月3日から1950年9月12日まで北東アジア部長[1][2]。1951年、ジョン・フォスター・ダレス対日講和特使の訪日にあたっては首席随員として随行、1952年には極東担当国務次官補に就任し、サンフランシスコ講和条約の草案作成に関与した。
1953年4月8日、駐日アメリカ合衆国大使に指名され、5月28日に日本政府に信任される。在任中は日米相互防衛援助協定 (MSA) の調印、1954年3月16日に発生した第五福竜丸事件の処理などにあたった。
第二次世界大戦中にアイゼンハワー司令部の政治顧問も務めた前任者のロバート・マーフィー、ダグラス・マッカーサーの甥であった後任のマッカーサー2世に比べて、知名度、政治的影響力ともに貧弱な「極東屋」として、当時から軽量級の大使と見なされることが多かった。
しかし、近年の研究では、アリソンが「朝鮮戦争・第一次インドシナ戦争が終わり、アジア冷戦が沈静化する中で、米国は政治経済ともに弱体な日本の国内状況安定を優先すべきであり、過度の再軍備を要求し、これを妨げるべきではない」との意見を本国政府に繰り返し具申していたことが明らかになっており、このような具申がアイゼンハワー政権下で生じた対日政策見直しや保守合同推進に少なからぬ影響を発揮したとする再評価が生まれている。
ハリー・トルーマン大統領図書館(Harry S. Truman Presidential Library and Museum)には関係者文書として、極東担当国務次官補時代の文書が保存されている。
アリソン殴打事件
日本軍が南京を占領したとき、日本軍の将校がアリソンを殴打するというアリソン殴打事件(1938年1月26日)が起きた。
アリソンの記録では、まず(1)武装した日本兵たちが安全区の金陵大学農学院作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所は、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンと金陵大学のアメリカ人リッグスがその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちも憲兵らに付いて家に入ろうとしたところ、日本兵に押し戻され、兵はアリソンついでリッグスに平手打ちをした[3]、(5)憲兵らは弱々しい態度ながらも兵を止めようとし、彼らはアメリカ人だとでも言ったようだ、ところがそれを聞くと兵はかえってリッグスにまた襲いかかり、憲兵らは止めたがリッグスは服の襟などを破られた[3]、(6)やがて将校が現れ侮辱的な態度でアリソンらを怒鳴った[3][4]、(7)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった[5]。
これに対して日本軍の公式見解では、「アリソン米国領事がある事件調査のため、日本軍中隊長の制止を振り切って家屋内に侵入しようとした」「アリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出た」とし、東中野修道はこの日本軍の主張する経緯が事実であることを前提に日本将兵らの行動を当然の行為としている[6]。しかし、秦郁彦は、居合わせた派遣軍司令部の本郷忠夫参謀と石倉軍二伍長の回想からとして、問題の家屋は天野郷三中隊長が勝手に自身と十数名の兵士らの宿泊所としていて、話を聞いて駆けつけた本郷大尉が天野の居る部屋に入ろうとすると、兵士たちが押しとどめようとし、それを無理に入ったところ、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも三、四人の女がおり、問いただすと天野が連日あちこちから女を連行し部下とともに強姦していたことが明らかになったことを指摘、事件は天野が自身らの非行を隠蔽しようとして起こったとしている[7]。飯沼守日記においても、その家では天野中尉と日本兵十数名が住み、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたとある[8]。この事件で、天野以下の12名は軍法会議へ送致されることになり、天野は禁錮刑3年を科せられている[7]。罪状は、上官脅迫の罪とされ、叙位取消も受けている[9]。
外交官が兵卒に殴打されるという国家の面子を潰された事件であり、アメリカでは南京事件よりも報道されて、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンDCでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝と賠償の約束でようやく沈静化した事件であった[10]。
もともと天野は陸軍士官学校出だったが予備役編入後、弁護士だったところを再召集されたもので、戦後、ふたたび弁護士に復帰している。兵らの間では、天野の横紙破りの行動を不思議に思い、「野田連隊長より成績が上で陸軍大学を首席で出た人やったらしい」「そのため中尉であっても野田大佐の言うことを聞かん」といった伝説めいた噂話が生まれていた。そのような兵士の話も含めて松岡環が紹介したところ、阿羅健一や東中野修道は、これらの部分が誤りであることから証言者個人の体験にかかる部分までデマ・ホラであるかのように主張[11]、松岡の調査の協力者である林伯羅は、阿羅らの解釈と主張のおかしさを批判している[12]。
略歴
- 1931年:在神戸副領事
- 1932年:駐日大使館勤務(-1934年)
- 1934年:駐日大使館副領事(-1935年)
- 1935年:在大連領事(-1936年)
- 1936年:在済南領事(-1937年)
- 1937年:在南京領事(-1938年)
- 1938年:在上海領事
- 1939年:在大阪領事(-1941年)
- 1942年:在ロンドン領事(-1946年)
- 1946年:国務省日本部長補佐(-1947年)
- 1947年:国務省北東アジア部長(-1948年)
- 1949年:国務省極東局次長(-1950年)
- 1951年:駐日大使館参事官
- 1950年:在シンガポール総領事(-1951年)
- 1952年:極東担当国務次官補(-1953年)
- 1953年:駐日アメリカ合衆国大使(-1957年)
- 1957年:駐インドネシア共和国大使(-1958年)
- 1958年:駐チェコスロヴァキア人民共和国大使(-1960年)
著書
- Ambassador from the Prairie, or Allison Wonderland, (Houghton Mifflin, 1973).
