ジャーヒズ
8-9世紀のアラブの知識人、著述家
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生涯
ジャーヒズに関する伝記的情報の情報源としては、ハティーブ・バグダーディー(d. 1071)やイブン・アサーキル(d. 1175)の著作や、ヤークート(d. 1229)の Irshād などがある[1]:387b。
あだ名の「ジャーヒズ」は「眼球が張り出している」ことを意味する[1][2]。本名(イスム)は「アムル」といい父親の名前は「バフル」である[1]。「アブーウスマーン」のクンヤがあり、南イラクのバスラに由来する「バスリー」のニスバがある(Abū ʿUthman ʿAmr b. Baḥr al-Baṣrī)[1]。
ジャーヒズが生まれついた家系は、アラブ部族のひとつバヌー・キナーナに帰属する[注釈 1]マワーリーの一家であり、取り立てて名家というわけではない[1]。父方祖父はハバシュ[注釈 2]出身の黒人奴隷であったようである[1][3](ジャーヒズの項)。
ジャーヒズは、ヒジュラ暦160年(西暦776-777年)ごろにバスラで生まれた[1]。ジャーヒズの著作のほとんどすべてが、彼の出生地であるバスラではなく、のちに彼が移り住んだバグダードかサーマッラーで書かれている[1]。にもかかわらず、ジャーヒズの思想に深いかかわりを持つのはバグダードでもサーマッラーでもなくバスラの知的・文化的環境であった[注釈 3][1]。
ジャーヒズが生まれたころのバスラは、南イラクでもっとも繁栄した都市の座をクーファと競い合う大きな町であり[2]、この町のモスクや市場には人が集まってイスラーム教の教義や政治について活発な議論が繰り広げられていた[1]。この時代のバスラやクーファのモスク(アラビア語で「マスジド」)に集まって議論した人々を特に指す言葉として「マスジディーユーン」という単語が生まれ、バスラにはミルバドの市というそのような議論が繰り広げられたことで有名な市場もあった[1]。
ジャーヒズはごく若いころからマスジディーユーンの議論に加わり、多くを学んだ[1]。子どもの頃のジャーヒズは、とにかく好奇心旺盛で、早く自立したいと願いながらも怠惰であったという[1]。これ以外の情報はほとんど知られていない[1]。
ジャーヒズの執筆活動をしていたと確実に言えるのは、ヒジュラ暦200年(西暦815-816年)ごろである[1]。それ以前にも何かを書いていた可能性はあるが詳細は不明であり、経済的に何をして身を立てていたのかもはっきりしない[1]。いずれにせよ、そのころに書いたイマーム論に関する複数の著作が、バグダードのカリフ・マァムーンの目に留まり、褒められた[1]。以後、ジャーヒズはカリフの招きに応じてバグダードへ上り(後年にはサーマッラーへも)、膨大な著作のほとんどを、それらの地で書いた[1]。
晩年は半身不随になり、故郷のバスラに引退したのち、ヒジュラ暦255年のムハッラム月(西暦868年12月から869年1月の間)に同地で亡くなった[1]。
