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ジャーヒズ

8-9世紀のアラブの知識人、著述家 From Wikipedia, the free encyclopedia

ジャーヒズ(アラビア語: الجاحظ, ラテン文字転写: al-Jāḥiẓ、776年ごろ生 - 868年又は869年歿)は、9世紀のイラクの文人[1](#生涯)。博物学的内容の『動物の書』や、ムゥタズィラ派の神学論、政治宗教に関する論争など、多岐にわたる内容の作品を散文形式のアラビア語で著した[1](#著作)。

ジャーヒズの『動物の書』よりキリンの図

生涯

ジャーヒズに関する伝記的情報の情報源としては、ハティーブ・バグダーディー(英語版)(d. 1071)やイブン・アサーキル(英語版)(d. 1175)の著作や、ヤークート(d. 1229)の Irshād などがある[1]:387b。

あだ名の「ジャーヒズ」は「眼球が張り出している」ことを意味する[1][2]。本名(イスム)は「アムル」といい父親の名前は「バフル」である[1]。「アブーウスマーン」のクンヤがあり、南イラクのバスラに由来する「バスリー」のニスバがある(Abū ʿUthman ʿAmr b. Baḥr al-Baṣrī)[1]。

ジャーヒズが生まれついた家系は、アラブ部族のひとつバヌー・キナーナ(英語版)に帰属する[注釈 1]マワーリーの一家であり、取り立てて名家というわけではない[1]。父方祖父はハバシュ[注釈 2]出身の黒人奴隷であったようである[1][3](ジャーヒズの項)。

ジャーヒズは、ヒジュラ暦160年(西暦776-777年)ごろにバスラで生まれた[1]。ジャーヒズの著作のほとんどすべてが、彼の出生地であるバスラではなく、のちに彼が移り住んだバグダードかサーマッラーで書かれている[1]。にもかかわらず、ジャーヒズの思想に深いかかわりを持つのはバグダードでもサーマッラーでもなくバスラの知的・文化的環境であった[注釈 3][1]。

ジャーヒズが生まれたころのバスラは、南イラクでもっとも繁栄した都市の座をクーファと競い合う大きな町であり[2]、この町のモスクや市場には人が集まってイスラーム教の教義や政治について活発な議論が繰り広げられていた[1]。この時代のバスラやクーファのモスク(アラビア語で「マスジド」)に集まって議論した人々を特に指す言葉として「マスジディーユーン」という単語が生まれ、バスラにはミルバドの市(アラビア語版)というそのような議論が繰り広げられたことで有名な市場もあった[1]。

ジャーヒズはごく若いころからマスジディーユーンの議論に加わり、多くを学んだ[1]。子どもの頃のジャーヒズは、とにかく好奇心旺盛で、早く自立したいと願いながらも怠惰であったという[1]。これ以外の情報はほとんど知られていない[1]。

ジャーヒズの執筆活動をしていたと確実に言えるのは、ヒジュラ暦200年(西暦815-816年)ごろである[1]。それ以前にも何かを書いていた可能性はあるが詳細は不明であり、経済的に何をして身を立てていたのかもはっきりしない[1]。いずれにせよ、そのころに書いたイマーム論に関する複数の著作が、バグダードのカリフ・マァムーンの目に留まり、褒められた[1]。以後、ジャーヒズはカリフの招きに応じてバグダードへ上り(後年にはサーマッラーへも)、膨大な著作のほとんどを、それらの地で書いた[1]。

晩年は半身不随になり、故郷のバスラに引退したのち、ヒジュラ暦255年のムハッラム月(西暦868年12月から869年1月の間)に同地で亡くなった[1]。

著作

主な著作に、修辞法について書いた『雄弁と明快の書』、博物学的な内容の『動物の書』、吝嗇を風刺した『けちんぼども』などがある[3](ジャーヒズの項)。

ジャーヒズが書いたとされるチェス(シャトランジ)に関するエッセイが伝世しているが、ジャーヒズの名に仮託して別人が書いたものである[4]。

註釈

  1. この時代の征服地における、非アラブの異教からイスラームへの改宗者は「マウラー」(あるいはその複数形である「マワーリー」)と呼ばれた[3](マワーリーの項)。マワーリーは所定のアラブ部族のいずれかへの帰属が義務であった[3](マワーリーの項)。
  2. al-Ḥabaš, エチオピア。
  3. ジャーヒズの著作を多く西洋近代語に翻訳した東洋学者シャルル・ペラ(英語版)の説[1]。

出典

関連文献

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