アントウェルペンの陥落
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| アントワープの陥落 | |||||||
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| 八十年戦争中 | |||||||
1585年のファルネーゼが架けたスヘルデ川の橋(木版画) | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
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| 指揮官 | |||||||
| フィリップス・ファン・マルニックス(聖アルデゴンド) | アレッサンドロ・ファルネーゼ(パルマ公) | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 約80,000名 | 約40,000名 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 約8,000名 | 約1,800名 | ||||||
アントウェルペンの陥落(アントウェルペンのかんらく)(オランダ語: val van Antwerpen [vɑl vɑn ˈɑntʋɛrpə(n)])は、八十年戦争(オランダ独立戦争)中の1584年7月から1585年8月17日まで続いた包囲戦の結果、1585年8月17日に起こった。 アン卜ウェルペンはプロテスタント側が支配するオランダ反乱の中心都市だったが、アレッサンドロ・ファルネーゼ(パルマ公)率いるスペイン軍に降伏した。 降伏条件により、アントウェルペンのプロテスタント住民は4年間の猶予を与えられ、その間に財産を整理して市外へ移住することが認められた。多くの住民が北へ(特にアムステルダムへ)移住した。 中産階級と商業人口の大量流出に加え、オランダ軍がスヘルデ川を封鎖したため、アントウェルペンの交易は以後2世紀にわたって深刻な打撃を受けた。
当時のアントウェルペンはハプスブルク領ネーデルラント最大の都市であり、十七州全体および北西ヨーロッパの文化・経済・金融の中心だった。 1576年11月4日、給与未払いのスペイン兵が反乱を起こし(スペインの狂乱)、市内を略奪・放火。数千人が虐殺され、数百軒の家屋が焼失した。これがきっかけでアントワープはハプスブルク・スペインに対する反乱に深く関与するようになり、1579年のユトレヒト同盟に参加、オランダ反乱の事実上の首都となった。
フィリップ2世は地中海方面のオスマン帝国との戦いが一段落したため、低地諸国へ再び注力。1577年秋にアレッサンドロ・ファルネーゼを増援として派遣した。1578年にドン・フアン・デ・アウストリアが死去すると、ファルネーゼはネーデルラント総督兼フランドル軍総司令官に就任。 1583年までにフランドルとブラバントの大部分を奪還し、1584年6月中旬、ついにアントウェルペン包囲の準備を開始した。