アントニオ・ロズミーニ
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イタリア、トレンティーノ=アルト・アディジェ州、ロヴェレート
イタリア、ピエモンテ州、ストレーザ
アントニオ・ロズミーニ | |
|---|---|
| 生誕 |
1797年3月24日 イタリア、トレンティーノ=アルト・アディジェ州、ロヴェレート |
| 死没 |
1855年7月1日 イタリア、ピエモンテ州、ストレーザ |
| 国籍 | イタリア人 |
| 職業 | カトリック司祭、哲学者、神学者 |
| 著名な実績 | ロスミニ会創設、社会正義の先駆け |
| 宗教 | カトリック |
アントニオ・ロズミーニ(Antonio Rosmini、1797年3月24日 - 1855年7月1日)は、イタリアのカトリック司祭、哲学者、神学者。
ロズミーニ会(正式名称:慈愛の院、Institute of Charity)を創設し、19世紀イタリアの知的・宗教的風景に影響を与えた。
社会正義の概念を先駆け、教会改革を提唱したが、イエズス会との対立で禁書掲載などの迫害を受けた。
2007年に列福された。
ロズミーニは、オーストリア領チロル地方のロヴェレート(現在のイタリア・トレンティーノ=アルト・アディジェ州)で、裕福で教養ある家庭に生まれた。父親のピエール・モデスト・ロズミニは地主、母親のジョヴァンナ・デイ・コンティ・フォルメンティ・ディ・リヴァは貴族の血筋。幼少期からラテン語、ギリシャ語、数学、哲学に親しみ、12歳で神学を始めた。地元のイエズス会士から教育を受け、早くから神学と哲学への情熱を示した。
1816年、パドヴァ大学に入学し、自然科学と哲学を学んだ。在学中、啓蒙主義やカント哲学に触れつつ、カトリック伝統に忠実な独自の思考を養った。1820年に大学を中退し、ヴェネツィアの神学校で神学と教会法を修め、1821年にキオッジャで司祭に叙階された。同年、神学と教会法の博士号を取得。叙階直後、ミラノの聖カルロ・ボロメオ神学校で教鞭を執り、若手神学生の指導に携わった。
叙階後、ロヴェレートに戻り、貧者への慈善活動に没頭。1826年頃から修道会設立の構想を練り、1828年にドモドッソラ近郊のモンテ・カルヴァリオにロズミーニ会を設立した。この修道会は教育、宣教、慈善を主眼とし、世俗の修道会としてイタリアの知的・社会的ニーズに応えた。1838年12月20日、グレゴリウス16世により正式承認され、急速に拡大。イタリア全土に広がり、後にイングランド、アイルランド、フランス、アメリカなどへ進出。現在も世界的に活動中。
この時期、ロズミーニは執筆活動を活発化させ、ミラノ、トリノ、ローマで講義を行い、若手知識人を集めた。1843年にロンドンを訪れ、英国のカトリック復興運動に関与し、英語著作も執筆した。彼の思想は、社会正義の先駆けとして貧困者支援や教育改革を提唱した。
政治的活動も活発で、ピエモンテ政府の顧問を務め、1848年のヨーロッパ革命(諸国民の春)で活躍。カルロ・アルベルト王からローマへの使節に任命され、教皇ピウス9世とイタリア統一勢力の連携を試みた。ローマでは憲法草案の起草に関わり、自由主義的カトリシズムを主張。しかし、革命の激化により1849年にローマから追放され、トリノに戻った。
この頃、彼の教会改革論がイエズス会を中心とした反対を招き、1849年に一部著作が禁書目録に掲載。ロズミーニは教会の決定に従い、活動を制限され、ストレーザ湖畔に引退した。隠棲後も執筆を続け、1854年に40の命題が非難されたが、常に教会権威を尊重し、沈黙を守った。健康を害しつつ、修道会の指導を遠隔で続け、国際的なネットワークを構築。1855年7月1日、58歳でストレーザで死去した。死後、禁書は一部撤回され、2007年にベネディクト16世により列福された。
哲学思想
ロズミーニの哲学体系は『哲学体系』(Sistema filosofico)と総称され、人間の知識、存在、道徳、社会を統一的に説明する百科事典的な枠組みである。哲学を「人間の知識の究極的原因の科学」と定義し、古代の永遠の哲学を現代的に復活させた。核心は「存在のイデア」(Idea of Being)という先天的原理で、神によって人間の理性に植え付けられた普遍的・客観的な光。これを基に神学と理性の調和を追求した。
認識論
知識の起源を「存在のイデア」の直観に置き、感覚経験を素材としつつ、原始的判断(主語-述語)の形成を説明。確実性は「真理への適合した堅固な確信」と定義。ロックの経験主義やカントの主観性を批判し、神聖な客観性を強調。魂の本質を「根本的感情」として自己意識以前に位置づけた。
形而上学と自然神学
被造物と神の関係を扱い、オントロジー、合理的自然神学、宇宙論で構成。神を「無限存在」としてイデアからa priori証明。神義論では悪を「最小手段の法則」で説明。魂論では魂を二要素(知性・感性)で説明し、トマス・アクィナスの三要素を否定。これがパンセイズムの疑いを招いた。
倫理学
道徳義務を「存在の秩序」への適合とし、良心を道徳的判断の器官とする。義務は真理の承認から生じ、善を本質的(秩序適合)と幸福論的(個別利益)に分ける。「知的慈善」(他者の知識支援)を強調。
法と社会哲学
社会を「共通善のための連合」とし、人間権利を「存立する権利」として位置づけ。国家の役割を権利調整に限定し、私有財産の擁護と自由主義をカトリック的に再解釈。教会改革では理性による浄化を主張。
方法論は誤謬の排除と統一原理の適用を基調とし、ヘーゲルやカントの主観主義を避けた。トマス・アクィナスとの比較では、影響(客観的真理の重視、神義論の共有)を受けつつ、相違(イデアの先天性、魂論の簡素化)が見られる。新トマス主義者として位置づけられる。
教会との関係と対立
ロズミーニの教会との関係は複雑で、初期の支持(修道会承認)と後年の対立が特徴。イエズス会を中心に、合理主義やオントロジーの疑いをかけられた。1839年の『道徳良心論』が論争の火種となり、1843-1846年にグレゴリウス16世の沈黙命令。1848年の『聖教会の五つの傷について』と『社会正義の憲法』が教会の病巣(聖職者-信者の断絶、教育不足、司教分裂、世俗権力、財産の封建扱い)を指摘し、1849年に禁書掲載。ロズミーニは追放され、引退した。
1854年のIndex調査で「dimittantur」(却下)決定。死後、1887-1888年にレオ13世が40命題を非難(魂論、神学逸脱)。しかし、2001年の信仰教理省声明で「時代的・政治的誤解」とされ、1998年の『信仰と理性』回勅で肯定的に言及。イエズス会の反対理由は教義的(合理主義疑い)、政治的(教会構造批判、革命期の不安定化)、組織的(教育競合)。
第二バチカン公会議(1962-1965年)はロズミーニ思想に影響を与え、『教会憲章』で司教選挙の民主化、『教会と現代世界の教会』で社会正義を強調。これによりロズミーニの改革論が再評価された。
主要著作
- 『イデアの起源について新論』(1830年)
- 『道徳の原理』(1831年)
- 『イタリアにおける哲学の回復』(1836年)
- 『権利の哲学』(1841-45年)
- 『聖教会の五つの傷について』(1848年)
- 『社会正義の憲法』(1848年)
- 『道徳良心論』(1839年)
- その他: 『カトリック教理問答』、『キリスト教的完全の格言』など。