ニージニ・ノヴゴロドの東南に位置するグリゴロヴォ村で生まれる。1638年頃に結婚。その後村を追われて、1641年に輔祭となり、2年後に司祭となる。1651年に長司祭に任じられた。
モスクワのカザン聖堂に勤めていた際、総主教ニーコンの教会改革に強く反対し、1653年シベリアに流刑された。はじめツァーリのアレクセイはアヴァクームをモスクワに呼び返し和解させようとしたが、彼は拒否し、逆にニーコンを異端と宣言した。1666年の東方教会会議において定められた、ニーコン以前の礼拝を廃するという方針に従わず、1667年6月17日についに破門され、ヨーロッパロシアの最北端プストジョルスク(英語版、ロシア語版)の砦に流刑された。15年間この地に幽閉されたが節を曲げず、『アヴァクームとエピファニイの生涯』(Жизнеописания Аввакума и Епифания, 1672年 - 1675年)を信仰を同じくする者達への励ましとして書き送った。この間、彼にしたがって正教会に抵抗する古儀式派が広がったため、1682年にツァーリの勅令をもってアヴァクームは焚刑に処せられた。