アートマス・ウォード
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ウォードは1727年マサチューセッツのシュルーズベリーで、ネイハム・ウォードとマーサ・ウォードの子供として生まれた。ウォードは7人兄弟の6番目であった。ネイハム・ウォードは、船長、商人、土地開発業者、農夫、弁護士、法学者として広い経歴を持ち成功していた。アートマス・ウォードが子供の頃は、公立学校に通い、また兄弟姉妹と共に同じ家庭教師の授業を受けていた。ウォードはハーバード大学を1748年に卒業し、短期間そこで教鞭をとった。
1750年7月31日、ウォードはグロートンの牧師キャレブ・トロウブリッジの娘サラ・トロウブリッジ(1724年12月3日 - 1788年12月13日)と結婚した。若い夫婦はシュルーズベリーに戻り、雑貨屋を開いた。次の15年間に8人の子供をもうけた。
1751年、ウォードはウースター郡の判事補佐官に指名された。これが役人としての経歴の始まりとなった。1752年には治安判事に選ばれ、植民地議会で最初の任期となった。
フレンチ・インディアン戦争
独立戦争前夜
1762年、ウォードはシュルーズベリーに戻って郡裁判所判事に指名された。議会では、サミュエル・アダムズやジョン・ハンコックと同じく税務委員会に所属していた。政府の立法に対する発言権はジェイムズ・オーティスに次いで2番目だった。この議論の場でウォードが目立ったことが、知事のフランシス・バーナードの注視するところとなり、1767年のウォードの軍務を取り消すことになった。1768年の選挙では、バーナードがウォースター郡の投票結果を無効にし、ウォードを議会から締め出したが、ウォードは黙ってはいなかった。
革命の機運が高まってくるなかで、1774年10月3日、第3連隊の兵士が大量にイギリス軍への奉仕を辞めた。それに続いて兵士たちはシュルーズベリーに向かいウォード大佐に全員一致で彼を指揮官に選んだことを告げた。その月遅くに知事は議会を解散した。マサチューセッツの町々は植民地全体に渡る「安全委員会」を組織して応じた。委員会の最初の行動は、植民地民兵の将軍にして最高指揮官にウォードを指名することだった。
監視する軍隊
1775年4月19日のレキシントン・コンコードの戦いに続いて、反乱軍がイギリス軍をボストンに追い詰め、ボストン包囲戦が始まった。当初、ウォードは病床から軍隊を指揮していたが、後にケンブリッジの作戦本部に移動した。まもなく、ニューハンプシャーとコネチカットの暫定政府がウォードを指揮官に指名し包囲軍に加わった。この時のウォードの任務は軍隊の組織化と軍需物資の調達に奔走することになった。
5月にイギリス軍の増援部隊が到着し、6月にはイギリス軍がバンカーヒルを攻撃する計画であることを知った。ウォードはそこを防衛することとし、1775年6月17日のバンカーヒルの戦いとなった。この戦いの指揮はイズラエル・パットナム将軍とウィリアム・プレスコット大佐に委ねた。その日のことでウォードが英雄的な立場にあると人々が認識する一方で、ウォードは防衛のための弾薬が不足していることに気を揉んでいた。
