イストミア大祭
古代ギリシアの競技会
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起源

この大祭はメリケルテースの慰霊祭として、シーシュポスが始めたといわれている。彼はコリントスの創建者にして王でもあり、メリケルテースの遺体をコリントス地峡に埋葬した人物とも言われている[1][2]。ローマ時代には、メリケルテースはこの地域で崇拝される存在となった[3]。
古代アテナイの伝説の王であるテーセウスは、それまで閉鎖的な夜の儀式に過ぎなかったこのメリケルテース慰霊祭を、ポセイドンに捧げる本格的なアスレチック競技会へと発展させた。この大会はギリシア全土に開かれたものとなり、その発展と人気はヘーラクレースにより創設されたオリュンピア大祭に匹敵するほどとなった[4]。また、テーセウスはアテナイからの来賓には前列席の特権を与えることも取り決めた (prohedria、古代ギリシア語:προεδρία)[5]。そのほかに変更された点は、紀元前7世紀のコリントスの僭主であるキュプセロスが、この大会を昔の栄華ある姿へと立ち返らせたことである[6][7]。
もし、最初のオリンピックが紀元前776年に始まったという説を支持するのであれば、イストミア大祭は紀元前582年に始まったと考えることができる[注釈 1]。
少なくとも紀元前5世紀(ピンダロスの存命時)までは、イストミア大祭の勝者に贈られる花冠にはセロリが使用されていたが[8]、後にこれは松に変更された[注釈 2][注釈 3][10]。勝者には、この他にも像[11]あるいは祝勝歌が贈られた。また、アテーナイ人が勝者であった場合、アテーナイでは更に100ドラクマの賞金も与えられた[12]。
歴史

紀元前228年または紀元前229年以降はローマ人も参加することを許された[13]。
196年に行われた大会は、ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが、マケドニア王国の支配からのギリシアの解放を宣言する場としても利用された[14]。アッピアノスの記載によると:
関係者とこれらの取り決めを行った後、ティトゥス・フラミニヌスはイストミア祭に赴いた。スタディウムが人で一杯になると、彼はトランペットによる静粛を命じ、伝令官に次のような布告を出させた。「ローマ元老院と人民、その将軍たるフラミニヌスは、マケドニア人とその王ピリッポスを打ち破り、もってヘレネス(ギリシア)が今後外国の駐屯軍より解放され、その貢税より脱し、ヘレネス自身の慣習と法律のもと生活することを命ずる」。ここに人々は喜びに歓呼し、熱狂と騒擾が起こった。ヘレネスの人々はここかしこで、伝令官を呼び戻し、布告の言葉を繰り返すよう求めた。彼らはフラミニヌスに冠と花飾りを献げ、故郷の都市で彼の像を建てる決議を行った。金の冠をかぶった大使が感謝を表明するため、ローマのカピトリウムに派遣され、ローマ人民の同盟者となることに署名した。ローマ人とピリッポス5世のあいだの第二次戦争はこのように終結した。[注釈 4]
大会の開始以降、コリントスが常に大会を支配していた。紀元前146年にローマ帝国によってコリントスが滅ぼされても、この大会は継続されたが[16]、管理はシキオンが行った。その後、コリントスは紀元前44年にカエサルにより再建された[17]。以降、テオドシウス1世が異教の儀式であるとして弾圧するまでの間、大会は大いに栄えた。
競技
有名な優勝者
紀元前216年、テーバイのCleitomachus(1日の間にレスリング、ボクシング、パンクラチオンで優勝した)[20]。