エウセビオ・キノ

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エウセビオ・フランシスコ・キノEusebio Francisco Kino, 1645年8月10日-1711年3月15日[1])は、イエズス会宣教師である。通称キノ神父。

エウセビオ・キノの肖像画(1700年ごろ)

現在のメキシコソノラ州アメリカ合衆国アリゾナ州南部の、主にトホノ・オオダム (Tohono Oʼodham Nation) 、ソバイプリ (Sobaipuri) 、その他のアッパー・ピマを含む、当時ピメリア・アルタと呼ばれていた地域のインディアンと共に活動してキリスト教カトリック)を布教し、24の伝道所とビスタ(田舎の礼拝堂)を創設した。また、バハ・カリフォルニアではなく半島であることを証明した。

経歴

キノはエウセービオ・フランチェスコ・キーニ(Eusebio Francesco Chini)として、1645年8月10日にトレント司教国ヴァル・ディ・ノン渓谷にある村セーニョ(現在のイタリアトレント自治県ターイオ分離集落)で生まれた。

重病から回復した後に、1665年11月20日、キノはイエズス会に加わった。彼は東洋に行くことを希望していたが、ヌエバ・エスパーニャの北の開拓地に伝道所を設立するよう命じられ、スペイン(エスパーニャ)でキルヒ彗星の観測記録を出版した後、1681年にスペインを発ち、バハ・カリフォルニアへのアトンドの遠征に参加した。しかし、1685年の長期にわたる干ばつの後、キノとイエズス会の宣教師たちは伝道所を放棄しヌエバ・エスパーニャの首都であるメキシコシティへ戻らざるを得なかった。

キノは、宣教師としての活動に加えて他の技能にも長けており、天文学者数学者、地図製作者でもあった。彼はピメリア・アルタ、カリフォルニア湾、バハ・カリフォルニアの地図を作成した。に関する知識もあり、地図と船の知識でメキシコのインディアンが容易にカリフォルニアに行くことができることを理解していた。それは当時のバハ・カリフォルニアがの島であると信じていた人たちに懐疑を持たれた考えだった。

地図製作者ニコラ・ド・フェル (Nicolas de Fer) によって手彩色されたこの地図は、もともと1696年にキノによって作成され、「カリフォルニアあるいはヌエバ・カロリーナ。北アメリカにおけるイエズス会の使徒的活動の地」と呼ばれる

1687年、キノ神父はピマと働くためにソノラに到着し、そのに最初のカトリック教会を設立した。キノはメキシコ北部を横切ってカリフォルニアアリゾナまで遠征した。以前には近づき難かった地域をつなげるために道路が敷設された。彼の馬による遠征は、13万平方キロ以上をカバーし、長さ300km、幅400km分の領域を地図にして、キノがソノラに行くまで、島だと信じられていたバハ・カリフォルニアを半島であると推論した。キノはバハ・カリフォルニアへの最初の陸路の遠征を率いて、その地域に関する以前の仮定が間違っていたことを証明した。

エウセビオ・キノのブロンズ像

キノは、インディアンに農業の基礎を教えて家畜種子をもたらし、当時のソノラの経済成長にとって重要な役目を果たした。キノに関して広く知られている事実のひとつは、彼が懸命にソノラのインディアンを守るために戦ったということである。キノは、スペイン人が彼らに課そうとしていた銀山での重労働に反対した。これは、多くがスペインが課した法律によって新世界で行動していた彼の修道士仲間の間で、かなりの論争を引き起こした。キノ神父はまた、宗教天文学、地図に関する本を著した作家でもあった。彼はソノラの内陸から北東240kmの、アリゾナ州ツーソンのダウンタウンの南15kmにある聖ザビエル伝道教会まで、広く伝道所を設立した。彼は19の牧場を作り、新しい開拓地に牛を供給した。

マグダレナ・デ・キノのキノの霊廟

1711年にメキシコのマグダレナ(1966年にマグダレナ・デ・キノと改名した)で死ぬまで伝道に務めた。同地には彼の遺骨を納めた霊廟が建立されている。彼はメキシコとアメリカ合衆国双方から称えられており、さまざまな町、通り、記念碑、地理的な特徴が彼にちなんで名付けられている。1965年、神父の彫像ワシントンD.C.国立彫像ホール・コレクションに寄贈された。アリゾナ州会議事堂、出身地のセーニョにも銅像が設置されている。

1970年にアリゾナ州の鉱山で発見された鉱物のキノ石英語版にキノの名がつけられている。

2020年ローマ教皇フランシスコにより、尊者に列聖された[2]

脚注

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