エチオピア労働者党
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| エチオピア労働者党 የኢትዮጵያ ሠራተኞች ፓርቲ | |
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| 書記長 | メンギスツ・ハイレ・マリアム |
| 成立年月日 | 1984年9月12日 |
| 前身政党 | エチオピア労働人民党組織委員会 |
| 解散年月日 | 1991年5月21日 |
| 本部所在地 |
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| 政治的思想・立場 |
共産主義 マルクス・レーニン主義 |
| 機関紙 |
アディス・ゼメン サルト・アッデル |
| 党旗 |
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| 公式カラー | 赤 |
エチオピア労働者党(エチオピアろうどうしゃとう、アムハラ語: የኢትዮጵያ ሠራተኞች ፓርቲ, ラテン文字転写: Ye Ityop’p’ya Serratennyocch Parti)は、エチオピアの旧政党。1984年から1990年まで同国に一党制を敷いた。共産主義、マルクス・レーニン主義を掲げてはいたものの、実態はメンギスツ・ハイレ・マリアムによる個人独裁を支える翼賛政党にすぎなかった。
背景とCOPWE設立
ハイレ・セラシエ1世が廃位された1974年のクーデターで、軍部を率いるメンギスツ・ハイレ・マリアムが実権を握ったことを受け、最有力援助国だったソビエト連邦が徐々に共産主義前衛政党設立による文民統治復活の圧力をかけ始めた。当初はそうした圧力を拒否していたメンギスツだが、1970年代後半、反政府武装勢力の活動が活発化したことを受け、全ての国民を統制する能力を持った政党設立の必要性に迫られた。そして1979年12月、メンギスツはエチオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)の設置を宣言した。
COPWEの設置を受け、革命的エチオピア青年協会などの大衆機構も組織された。これらは各階級の広範な利益を代表し、また派閥主義を根絶することで、国家全体を統括する統一政党の設立を容易にすることを目的としていた。こうした組織の設置は、エチオピア国民の政治意識を議会においてのみでなく職場や教育機関内でも高めさせる効果があった。よって多様な大衆機構への加入は、国家によって強く推奨されることとなった。
COPWEはエチオピア労働者党設立までに委員会を3度招集し、大衆機構の設立により政府に多様性を持たせることに努めた。だが1980年の第1回委員会では、委員の3分の1以上が軍人か、もしくは首都であるアディスアベバの代表で占められた。その中ではまず、COPWE中央委員会と書記局の構成員が発表された。書記局は中央委員会での議事を管理する重要部局で、その多くは文民の共産主義者によって占められていたが、常に軍事政権の監視を受けていた。また書記局の地域支部は陸軍将校によって調整され、書記局中央指導部の補佐としての役割を果たした。そして1981年、執行委員会が新設され、地方の代表を受け入れるようになったことで、COPWEは更に強大な機構となっていった。
1983年までに、COPWEは約5万のメンバーと約6千5百の組織細胞を抱えるようになった。だがメンギスツがCOPWE成立初期に出したイデオロギー的な純正さと共産主義への傾倒を求める声明にもかかわらず、共産主義イデオロギーは形骸化していった。政敵を追い落とし、軍事独裁政権への忠誠を誓うことが、マルクス・レーニン主義の堅持よりも重要であると見なすCOPWEメンバーが増えたのである。この頃には、軍人と治安部隊員がCOPWE中央委員会で多数派となっていた。
