第二次世界大戦末期、ベーレンフェンガーはベルリンに滞在していた。1945年4月22日、中佐であったベーレンフェンガーは、ヒトラーにより、30歳で少将に任命された。ベーレンフェンガーはベルリン防衛線で短期間であったが、ヒトラー護衛を担当した。
4月末、ベルリン防衛軍司令官は頻繁に交代した。3月初旬、ヘルムート・ライマン中将がその任務に就いていたが、4月22日、エルンスト・ケーター(英語版)と交代となった。しかしケーターは精神的な面でその任務に向いておらず、その代理としてベーレンフェンガーが職務を行った。4月23日、ヘルムート・ヴァイトリング大将が死守命令に背いたとされ、ヒトラーに銃殺命令が出された。しかし、ヴァイトリングの話を聞いたヒトラーはこれを取り消し、さらにヴァイトリングをベルリン防衛軍司令官に任命した。
このベルリンを戸惑わせた司令官の交代劇の間、ベーレンフェンガーはヒトラーの副官的位置で職務に就いていた。
以下はミュンヘベルク装甲師団の将校が書いた日記の4月26日夕方の記述から引用する。
”空軍省からエーリッヒ・ベーレンフェンガー少将が防衛軍の司令官を解任されたというニュースが届いた。一時間後に、ヘルムート・ヴァイトリング大将が任命されたと聞いた。ウェルナー・ムマート(ドイツ語版)予備役少将が戦車部隊を指揮するという・・・。”
このような情報は、数日たってから現場に流れるようになっていた。
ベルリンの戦いが始まった4月26日、ヒトラーが直接指揮を取るために、ベーレンフェンガーは防衛区画「A」、「B」を担当することとなった。ベーレンフェンガーは、シェーンハウザー並木駅から北に向かって少なくとも2回、戦車による攻撃を行ったが、どちらも成功しなかった。2回目は5月1日に行われた。
ヒトラー死後、包囲下のベルリンからヴィルヘルム・モーンケSS少将らが脱出する際、ベーレンフェンガーはその支援を行った。5月1日、モーンケらは総統地下壕からの脱出に成功した。そこで彼らはあたかもパレードのように新しいティーガー戦車や突撃砲が高射砲塔の前に並ぶのを見たという。さらに伝えられる話では若き少将ベーレンフェンガーの姿がその居並ぶティーガーの中に居たといわれる。
5月2日から3日夜にかけて、ベーレンフェンガーはオラニエンブルクへの逃亡を試みたが、失敗したためベルリン=プレンツラウアーベルクのビール醸造所の地下室で若き妻と義理の兄弟と共に自殺した。