カリベルト2世
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生涯
カリベルトの正確な生年については直接的な記録がなく、異母兄ダゴベルト1世より「数歳年下」であったということのみが知られている[1]。父クロタールは当時珍しくなかった重婚を行っており、カリベルトはその「側室」との間に生まれた子供であった。
629年に父であるフランク王クロタール2世が死去すると、カリベルトは、すでに623年からアウストラシア王であった異母兄ダゴベルト1世に対し、ネウストリア王国の継承を求めて動き出した。その後の交渉において、カリベルトの代理人を務めたのは、王妃シキルデの兄弟である叔父のブロドゥルフであった。ダゴベルトはブロドゥルフを殺害したが、異母弟カリベルトが半ば独立した領域であったアキタニアを自らの領土とすることには干渉しなかった。両者の間に深刻な対立は生じなかったようであり、631年にはカリベルトがダゴベルトの息子シギベルトの代父(名付け親)を務めている。
カリベルトの領土にはトゥールーズ、カオール、アジャン、ペリグー、サントが含まれ、さらにガスコーニュの所領もこれに加えられた。カリベルトはガスコーニュの支配者アマンの娘ジゼラと結婚した。カリベルトの軍勢はバスク人の抵抗を鎮圧し、ノウェムポプラニア全域(後のガスコーニュ公国)を支配下に置いた。
632年、カリベルトはジロンドのブライで死去し、その直後に幼い息子キルペリクも殺害された。これによりアキテーヌは再びダゴベルトの手に渡った[2]。カリベルトとその息子キルペリクは共に、ブライにある初期ロマネスク様式のサン・ロマン聖堂に埋葬されている[3]。
