ガリーナ・ブィストロワ
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ブィストロワは、80mハードルと五種競技の選手として活躍。1955年までは旧姓のドルシェンコワを名乗っていたが、1956年以降はブィストロワと名乗った。1956年、ブィストロワはソビエト選手権の80mハードルで3位となりメルボルンオリンピックへの出場を決める。メルボルンでは、11秒0で、3位のオーストラリアのノーマ・スローワーと同タイムとなりながら、4位となり惜しくもメダルに手が届かなかった。
ブィストロワは、ソ連国内では、1957年から100mハードルを3連覇。1957年から五種競技を連覇している。1958年のストックホルムで開催されたヨーロッパ選手権では、この2種目に出場、まず五種競技で、4733ポイントで、同じソ連のニーナ・ヴィノグラドワらを押さえ金メダル。五種競技が終わった翌々日、100mハードルを10秒9で制し、2冠を達成した。
1960年ローマオリンピックには、前回と同様80mハードルに出場。しかし、11秒2で、前回を下回る5位という成績に終わった。2年後のユーゴスラビアのベオグラードで開催されたヨーロッパ選手権でも、4年前と同じ80mハードルと五種競技に出場。80mハードルは10秒8で6位となったが、五種競技では、フランスのデニス・ゲナールらを押さえ2大会連続の金メダルを獲得。なお、このとき4位には1968年メキシコシティーオリンピックの金メダリストのイングリット・ベッカー、5位には、1972年ミュンヘンオリンピックの金メダリストのメアリー・ピーターズが入賞している。
ブィストロワは、100mハードルより五種競技でよい成績を残していたが、1964年東京オリンピックから五種競技が正式種目となり、3回目のオリンピックで初めてのメダル獲得の可能性が出てきた。そして、東京では、4956ポイントで、同じソ連のイリーナ・プレス、イギリスのマリー・ランドに次いで銅メダルを手にし、初のオリンピックでの表彰台となった。
これ以降、ブィストロワは国際大会に出場することはなかったが、1968年のソビエト選手権の五種競技で3位という成績を残している。