ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ
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遠征隊は7隻の船で構成された。しかし、船の大きさや耐久性、速度などの性能はまったくばらばらだった。このことは決定的な遅れを多発させ、明らかに大間違いだった。筆頭水先案内人はフアン・セバスティアン・エルカーノで、彼は1519年~1521年のマゼラン遠征隊に参加し香料諸島に行ったことがあり、1522年には喜望峰回りでヨーロッパに帰還した、史上初の世界周航達成者であった。
艦隊は1525年7月24日、ア・コルーニャを出発し、1526年1月にはパタゴニア沖に至った。この時点で2隻の船が艦隊からはぐれていた。その後数週間はまったく悪夢のようだった。艦隊は何とか集合することができたが、マゼラン海峡への突入時、強風でちりぢりになり、2隻が難破、別の1隻は大西洋上で投錨し、遠征隊から離脱してしまった。残り4隻になった艦隊はぼろぼろになりながら5月には太平洋中央部に至ったが、強風のためまたしてもちりぢりになってしまい、もはや再び集合することはできなかった。
その1隻、キャラベル船のサン・レスメス号は、知られていないが、数奇な運命をたどった(フランシスコ・デ・オセスを参照)。小型船サンティアゴ号は北に進路をとり、10,000kmもの航海の後、1526年7月、メキシコ太平洋岸にたどり着いた。これはヨーロッパ人最初の北米西海岸航海となった。サンタ・マリア・デル・パラル号は太平洋を渡りセレベス島に至った。船は沈み、生存者は現地人に殺されるか奴隷となった。うち4名は1528年、メキシコから来た別のスペイン人遠征隊によって助け出された。
旗艦サンタ・マリア・デ・ラ・ビクトリア号は、艦隊の中でただ1隻、香料諸島にたどり着くことができた。1526年9月のことである。その前に、彼らはマゼランがそうしたように、グアムに立ち寄っていた。驚くべきことに、そこでスペイン人を発見した。マゼランの艦隊から脱走したゴンサロ・デ・ビゴであった。彼は太平洋史で最初のヨーロッパ人漂流者だった。