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グレース・オマリー

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グレース・オマリー(Grace O'Malley, 1530年頃 – 1603年頃)は、アイルランド西部の名門オマリー(オ・マーリャ)氏族の族長エオハン・ドゥダラ・オ・マーリャの娘。グラーニャ・オマリー(Gráinne O'Malley)[2]とも。アイルランドの民間伝承では一般にグラーニャ・ウィール(Gráinne Mhaol)、英語化されてグラニュエール(Granuaile)として知られるほか、当時の英語文献では Gráinne O'Maly, Graney O'Mally, Granny ni Maille, Grany O'Mally, Grayn Ny Mayle, Grane ne Male, Grainy O'Maly, Granee O'Maillie などさまざまな形で記されている。これらすべてが本名のグラーニャ・ニー・ワーリャ(アイルランド語: Gráinne Ní Mháille)からきている(ニー・ワーリャはオ・マーリャの女性形)[3]。16世紀アイルランドの有名な歴史上の人物であり、現代の大衆文化ではしばしば「海賊女王(The Pirate Queen)」との異名で呼ばれる。

死没 1603年(72 - 73歳没)[1]
おそらくアイルランド、ロックフリート城
配偶者
  • ドーナル・オフラハティ(英語版)
  • リチャード・バーク(英語版)
概要 グレース・オマリーGrace O'Malley, 生誕 ...
グレース・オマリー
Grace O'Malley
Grainne Ní Mháille
グレース・オマリー像、ウエストポート・ハウス
生誕 1530年頃[1]
アイルランド、コノート、ウハル(英語版)
死没 1603年(72 - 73歳没)[1]
おそらくアイルランド、ロックフリート城
職業 地主、船長、政治活動家
配偶者
  • ドーナル・オフラハティ(英語版)
  • リチャード・バーク(英語版)
子供
  • エオハン・オフラハティ
  • メイヴ・ニー・フラハティ
  • マーカド・オフラハティ
  • ティボット・バーク(英語版)
親
  • エオハン・ドゥダラ・オ・マーリャ(父)
  • マーガレット/メイヴ・ニー・ワーリャ(母)
海賊活動
愛称はげのグラーニャ、グラニュエール、ドゥーナの黒き貴婦人、海賊女王[1]
所属オマリー氏族
指揮ホワイト・シーホース号
参戦アイルランド九年戦争(英語版)
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父の死後、ドーナル・アン・フィーパ・オ・マーリャという弟がいたにもかかわらず、グレースは領地の陸上および海上支配の実質的な指導権を継承した。ドーナル・アン・コーガ(戦好きのドーナル)・オフラハティとの結婚により、さらに大きな富と影響力を手にし、千頭もの牛と馬を所有したとされている。1593年に息子チボート・ア・ブールク(ティボット・バーク)と異母弟ドーナル・アン・フィーパ(「バグパイプのドーナル」)がイングランド人でコノートの総督リチャード・ビンガム(英語版)卿に逮捕されたとき、グレースは彼らの釈放を求めてイングランドに渡り、グリニッジ宮殿で女王エリザベス1世に対して正式に請願した[1]。

2003年6月18日、ウェストポートの敷地内で子孫のアルタモント伯爵とK・T・ウィテカー博士[4]による像の除幕式が行われた[1]。

生い立ち

グレースはヘンリー8世がイングランド王で、かつアイルランド卿の称号をもっていた1530年頃にアイルランドで生まれた。当時のイングランド政府の政策では半自治的なアイルランドの氏族長たちはほぼ放任状態にあった。しかしテューダー朝がアイルランド征服の歩みを速めるにつれてこの状況は大きく変化した。

父のエオハン・ドゥダラ・オ・マーリャとその一族はメイヨー県クルー湾を本拠地としていた。父はオ・マーリャ氏族の族長であり、ウハル(英語版)の領主でもあった。また、自らをマイレ・マク・コナル(Maille mac Conall)の子孫であると称していた。一族はウイ・マーリャ(Uí Mháille)と呼ばれ、彼らは現在のメイヨー県南西部にあるマリスク男爵領(英語版)の大部分を支配し、沿岸に城を築いて領土を防衛した。現在のメイヨー県の広範囲を支配していたバーク氏族の下マク・ウィリアム家(英語版)が名目上の宗主であったとされる。母マーガレット(またはメイヴ)もオ・マーリャ氏族の出身であった。グレースは父と母との間の一人娘であったが、父方の異母兄弟にドーナル・アン・フィーパ(ドーナル・ナ・ピーポとも)がいた。古代アイルランドから続く氏族の諸権利を定めたブレホン法(英語版)では氏族長の地位は男性のみが継承できたが、グレースに関しては相続人と見なされていた。[5]

ウイ・マーリャの氏族はキャリックキダフネット城(英語版)などの沿岸の城を拠点として、領地で漁を行う者から「ブラック・レント(black rent)」と呼ばれる通行料・護衛料を徴収しており、その対象には遠くイングランドから来る漁師も含まれていた。一族の当主は、単に姓を用いてオ・マーリャ(Ó Máille)と呼ばれていた。[6]

グレースは幼少期、父にスペイン行きの船旅を禁じられた際、自ら髪を切って少年のように変装し乗船したという逸話がある。これが「Gráinne Mhaol(はげ頭のグラーニャ)」の由来となった[1]。幼少期にはおそらく一族の居城があったベルクレア(英語版)やクレア島(英語版)で育ったと考えられている。ただし、当時のアイルランドのゲール系貴族の間では里子制度が一般的であったため、別の家族のもとで養育された可能性もある。[7]

オフラハティ氏族との結婚

クレア島

1546年、グレースはオフラハティ氏族(英語版)の後継者であったドーナル・アン・コーガ・オフラハティと結婚した。この縁組はオマリー氏族の娘にとっても政治的に有利な結婚であった。オフラハティ家の後継者であったドーナルは、いずれイアル・コノート(英語版)(現在のコネマラ地方に相当)の領主となることを期待されていた。[8]

グレースはドーナルとの間に3人の子どもをもうけた。

  • エオハン(オーウェン)

長子。温厚で寛容な人物として知られていた。リチャード・ビンガム卿の策略にはまり、その結果殺害された。ビンガムとその部隊はその後、彼の城を占領した。[9]

  • メイヴ

母親によく似た性格だったと伝えられる。彼女は第22代下マク・ウィリアム氏族長であるリチャード・バーク(悪魔の鉤)(英語版)と結婚し、数人の子どもをもうけた。メイヴとバークは非常に親しい関係にあり、バークは幾度となく彼女の命を救ったと伝えられている。[9]

  • マーカド(マーロウ)

父親譲りで戦いを好む性格だったという。彼はしばしば妹のメイヴに暴力を振るい、女性であるという理由から母の言うことにも耳を貸さなかった。兄エオハンが殺された後、彼は一族を裏切ってリチャード・ビンガム卿に味方した。グレースはこれを知ると、生涯二度とマーカドとは口を利かないと誓ったが、彼を侮辱することはしばしばあったという。[9]

1564年、ドーナル・オフラハティのイアル・コノートを相続するという望みは打ち砕かれた。イングランド女王のエリザベス1世が、彼ではなく親族のマーロウ・ナ・トゥア・オフラハティを氏族長に任命したためである。翌1565年、ドーナルはコリブ湖周辺の丘で狩りをしている最中に待ち伏せされ殺害された。この暗殺は湖畔のヘンズ城(英語版)の支配権をめぐるジョイス氏族との抗争の一環であった。ジョイス家はグレースが抵抗しないと考えて城を奪おうとしたが、彼女は応戦し、ジョイス家を撤退させることに成功した。その後グレースは自らの領地へ戻り、クレア島の城(現在では「グラニュエールの城(英語版)」と呼ばれる)を主要な居城とした。伝承によれば、この頃彼女は難破した船乗りを恋人にしたという。しかしその恋は長く続かず、彼はバリーヴォイ(英語版)のマクマホン氏族によって殺害された。復讐を誓ったグレースはブラックソッド湾(英語版)にあるマクマホン家の本拠ドゥーナ城を襲撃し、恋人を殺した者たちを討ち果たした。このマクマホン家への報復により、グレースは「ドゥーナの黒き貴婦人」という異名を得た。[10]

バーク氏族との結婚

1566年までに、グレースは第18代下マク・ウィリアム氏族長で鉄のリチャードとして知られるリチャード・バーク(英語版)(リズダード・アン・イアリン・バーク)と2度目の結婚をした。「鉄のリチャード」という異名は、彼の主だった居城があるブリシュール(Burrishoole)の製鉄所に由来している。この結婚で生まれた子が、後の初代メイヨー子爵ティボット・バーク(英語版)である。[11]

再婚してもなおグレースの復讐心は収まることはなく、バリークロイ(Ballycroy)へと船を進め、再びドゥーナ城を攻撃した。グレースは礼拝中だった守備隊を急襲して打ち破り、城を自らの支配下に置いた。マクマホン家への攻撃はグレースが礼拝中の相手を襲った最初の出来事ではなかったという。伝説によれば、かつてある小領主が彼女の財産を盗み、教会へ逃げ込んで聖域による保護を求めたことがあった。グレースは相手が飢えて降伏するまで待ち続けるつもりでいたが、その者は地下道を掘って脱出してしまう。教会を管理していた沈黙の修道士はその誓いを破り、聖域に逃げ込んだ者に危害を加えようとした彼女を厳しく非難したというが、これに対してグレースが何と答えたのかは記録に残っていない。[12]

領地をめぐって

ロックフリート城

1576年、グレースは自らの領地についてアイルランド総督 (ロード・デピュティ)のヘンリー・シドニー卿との間で「降伏と再授封(英語版)」の手続きを行った。これは、従来のゲール系領主がイングランド王権に服属し、その代わりに国王から正式に領地を再授与されるという制度である。しかし彼女の本拠であるロックフリート城はダブリンから徒歩で1週間以上もかかる遠隔地にあり、さらに彼女自身がしばしば海上にいたため、この地域に対するイングランド王権の支配力はきわめて弱かった。

グレースには自らの支配地域に対するアイルランド王国とイングランドの影響力を抑えるだけの力があり、またその行使を決して躊躇わなかった。1579年3月、ゴールウェイから出発したウィリアム・オーグ・マーティン保安官率いる遠征隊がクレア島にあるグレースの城を攻撃した。しかし遠征隊は彼女の軍勢に撃退され、辛うじて逃げ延びるのが精一杯であった。

しかし16世紀も後半になるとイングランドによるアイルランド支配は着実に強まり、それに伴ってグレースの支配圏も徐々に侵食されていった。

エリザベス1世との会見

1593年、グレースはエリザベス1世に請願書を送り、「残された余生を過ごすために相応の生活の糧を与えてほしい」と願い出た。その見返りとして2人の息子と生き残っていたバーク家出身の2人の甥が所有する土地を自ら女王に引き渡し臣従することを申し出た。また、「生涯にわたり、陛下の敵がどこにいようとも、剣と火をもって攻撃する自由を何者にも妨げられることなく認めてほしい」とも求めた。[13]

同年5月、ファーマナ領主ヒュー・マグワイア(英語版)が反乱を起こし、当時ジョージ・ビンガム卿の統治下にあったバリーモートを焼き討ちした。マグワイアの部下の一人が捕らえられ、その供述からグレースの息子ティボットがイングランドに対する多数の犯罪に関与していると判明した。ティボットは直ちにコノート総督(英語版)のリチャード・ビンガム(英語版)卿によって逮捕され、アスローンの牢獄へ送られて反逆罪で起訴された。さらにグレースの異母兄弟ドーナル・ナ・ピーポもビンガムによって逮捕され、数名のイングランド兵殺害の罪で告発された。[13]

グレースは2人の釈放を求めて自らイングランドへ渡り、エリザベス1世に直接請願することにした。彼女にはマーロウ・ネ・ドー・オフラハティ卿が同行したほか、リチャード・ビンガムによってエリスのウリック・バークの息子とグレース自身の大甥が付き従っていたことが確認されている。また、ビンガムによればグレース自身が船を操ってイングランドへ渡ったとされる。女王の寵臣であり遠縁でもあったトマス・バトラー(第10代オーモンド伯)(英語版)は、グレースを国王秘書長官であるバーリー男爵ウィリアム・セシルに紹介した。セシルはグレースに「18項目の尋問事項」を送り、彼女はそれに書面で回答した。[13]

ほぼ同じ頃、ビンガムはセシルへの書簡で次のように記している。「サー・マーロウとグレイニー・オマリーという、幼少の頃から反逆を企ててきた悪名高い2人の反逆者がイングランドへ渡った。彼らは何度も恩赦を受けているが、近年明らかになった罪状だけでも絞首刑にするには十分である。」[13]

オマリーとエリザベス1世の会議 1793年作

伝承では、グレースは豪華な衣装を纏い、グリニッジ宮殿でエリザベス女王と対面したとされる。2人の周囲には近衛兵や王宮の廷臣たちが控えていた。しかしこの場面については同時代の文書には記録されておらず、会見の様子は後世になって多くの伝説が付け加えられたと考えられている。[14]例えばグレースがエリザベスを「アイルランド女王」と認めなかったためお辞儀をする事を拒否したという話や、グレースが護身用と称して短剣を隠し持っている事が判明したさい、廷臣たちは驚いたが、エリザベスは動じなかったという逸話が残っている。さらに、グレースがくしゃみをしたさいにある貴婦人がレースの飾りのついたハンカチを差し出した。グレースはそれで鼻をかんだ後、そのハンカチを暖炉へ投げ込んだため、宮廷中が衝撃を受けたという。グレースは「アイルランドでは、一度使ったハンカチは汚れたものと見なされ、燃やして処分するのが当然なのです」と説明したとされる。[14][13]

グリニッジでの会見を受け、エリザベスは枢密院に対してビンガムがオマリー氏族に行った処遇についての説明と、グレースの境遇を改善する具体的な方法を模索するよう命じた。これに対しビンガムは自らの潔白を主張し、「私は常にキリスト教徒としての義務を忘れず、女王陛下の法に基づく場合を除いて、誰かの命を奪おうとしたことは一度もない」と弁明した。しかしその一方で「彼女を知らぬ者がどれほど持ち上げようとも、私なら30トンほどの船が一隻あれば、神の助けを借りて彼女とその艦隊をまとめて海へ追い払ってみせる」と強気の姿勢も示している。[13] またビンガムはグレースについて「この40年間、コノート地方におけるあらゆる反乱の育ての親であった」と非難している。

同年9月、エリザベスはビンガムに書簡を送り、ティボット・バークとドーナル・ナ・ピーポを釈放するよう命じた。またグレースには息子たちの領地から生活費を支給し、その分は彼らの王室への租税から差し引くよう命じた。さらに彼らが土地と財産を保持し平穏に生活できるよう保護することさえも求めた。エリザベスは「グレースは深い感謝とともに宮廷を去り、生涯忠実な臣民であり続け、さらに自らの全力を尽くして王室の敵を攻撃・追討すると固く約束した」と記している。[13]

晩年

リチャード・ビンガムは女王の決定に反対し、グレース自らがアイルランドへ持ち帰ったエリザベス女王の命令にも従おうとしなかった。そこでグレースは「もし命令に従わないのであれば、再びイングランドに行って女王に直訴する」とビンガムを脅迫した。その結果、彼はしぶしぶながらティボットとドーナル・ナ・ピーポを釈放することに同意した。[13]

グレースは3隻の大型ガレー船を中心に艦隊を再建し、以前のような海上での活動を再開した。しかしビンガムはすぐにこれを妨害した。彼は自らの兵士をグレースの船に乗り込ませて航海に同行させたうえ、反乱の兆しがあるとビンガムが見なしたオマリー氏族の一派に対する軍事行動への協力を強制した。さらに、ビンガムはイングランド兵をブリシュールにあるグレースの領地へ駐屯させてその維持費を負担させたため、彼女は急速に困窮していった。もはやその負担に耐えきれなくなったグレースは息子たちや一族の従者たちと共にマンスター地方に移住せざるを得ず、そこで極めて苦しい生活を送ることになってしまった。[13]

1595年4月、グレースはキャリック=オン=サイア(英語版)にあったオーモンド伯のエリザベス朝様式の館を訪れ、その支援を求めた。オーモンド伯は彼女のためにセシルへ嘆願書を書いた。その後、4月17日から5月5日の間に、グレースは再びイングランドへ渡り、自らの訴えをセシルに直接申し立てた。この働きかけは実を結び、8月には女王と枢密院が委員会を設置し、グレースの一族たちがメイヨーで主張する土地の権利を調査するよう命じた。その目的は彼らが土地を王室へ正式に返上した後、特許状によって改めて領地を授与することであった。[13]

同年9月、ビンガムに対する何らかの陰謀が起こり、彼はイングランドへ逃亡したものの投獄された。後任にはコニアーズ・クリフォード卿がコノート総督として任命された。[13]

グレースはおそらく1603年頃、ロックフリート城で没したと考えられている。奇しくもこの年はエリザベス1世が崩御した年でもある。ただしグレースの正確な没年や没地については諸説ありはっきりしない。一族の伝統的な埋葬地はクレア島修道院(英語版)である。

人物

グレース・オマリーの名はアイルランドの歴史書には記されておらず、彼女の生涯を知るための文献証拠はほとんどが英語の情報源、特にエリザベス1世が彼女に送った18項目の「質問事項」の返答によるものである[15]。その名はイングランド政府関係書類や同種の他の文献にも見られる[16]。

「陸上海上において恐れ知らずのリーダーで、政治的実際主義者で、政治家で、非情な略奪者で、傭兵で、反逆者で、やり手のネゴシエーターで、家族と部族を守る女族長で、はるか遠い祖先から地母神と戦う女王の特徴を純粋に受け継いでいた。そして何よりも、従来の型を破り、それゆえに歴史上でユニークな役割を演じた女性といえる」

九年戦争の間、グレースは息子ティボット・バークに対し、ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)を中心とするアイルランド諸侯の同盟軍ではなく、イングランド王室側として戦うよう奨励し、支援し続けたという。

ウエストポート・ハウス

アイルランドのメイヨーにあるウエストポート・ハウス(英語版)は、スライゴ伯爵(英語版)家であるブラウン家の邸宅であり、その一族はグレース・オマリー直系の子孫である。現在の邸宅は、かつてオ・マーリャ氏族の要塞であったカハーナマート(Cahernamart、アイルランド語:Cathair na Mart「牛市場の砦」の意)の跡地近くに建てられている。邸宅は1691年のリムリック包囲戦(ウィリアマイト戦争)に参加したジャコバイトのジョン・ブラウン大佐とその妻モード・バークによって建設された。モード・バークは、グレースの玄孫にあたる。

ウエストポート・ハウスには、ジェレミー・ブラウン(第11代スライゴ侯爵)(英語版)の義弟である彫刻家マイケル・クーパーが制作したグレイニア・オマリー像が展示されているほか、そのブロンズ鋳造版が邸宅の敷地内にも設置されている。さらに邸宅内にはグラニュエールの伝記を著した歴史研究家アン・チェンバーズが監修・制作したグレースの生涯を紹介する常設展示も設けられている。

カルチャーにおけるグレース・オマリー

脚注

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