サヤ (音楽)

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サヤは、ボリビア多民族国の民族音楽の一種。アフリカにルーツを持つアフロボリビアスペイン語版の音楽であり、ユンガス地方が発祥の地とされる。大小の太鼓(タンボール)とギロに似た楽器クワンチャによって刻まれたリズムに歌唱が重ねられていく。遅くとも19世紀半ばには演奏様式が確立していたが、アフロボリビア以外の住民からの認知には時間を要し、1990年代までカポラレススペイン語版と同一視されていた。

演奏様式

弦楽器管楽器を用いずにタンボールとクワンチャのみで演奏するのが伝統的なスタイルである[1]。タンボールは表皮を剥いだ丸太になめし皮を張った片手持ちの太鼓であり、消音用の房がついた専用のバチ(ハウカニャ)で打音を調節する[1]。ユンガス地方内でも地域差はあるが、サイズの異なる5種類から7種類のタンボールを使い分ける[1]。クワンチャは、タクワラまたはトホロといわれる竹の一種を素材とするギロに似た楽器であり、繊維に対して直角に彫られた溝を摩擦して音を出す[1]

演奏は、最も大きなタンボール(タンボール・マヨール)の打音から始まり、他のサイズのタンボールが続いた後、クワンチャの演奏、独唱(コプラ)が入り、合唱へとつながる[1]。以降、コプラと参加者による合唱が交互に繰り返される[1]。楽器の演奏は男性が担当し、女性は帽子とショールを手に持ち踊る[1]。曲目によっては、足元に鈴の付いた衣装で手に鞭を持ったカポラルという男性の踊り手が演奏進行を指揮する役割を担う[1]。地域の祭りの中で演奏する際は、女性の踊り手を先頭にしてタンボール奏者が続く隊列をとり、歌唱と踊りを披露しながら集落内を行進する[2]。最終盤に、タンボール・マヨールの奏者またはカポラルが合図を入れ、演奏は締めくくられる[1]

1990年代以降は、観客を前にしたステージやライブハウスに適応した演奏スタイルや伝統的なサヤにアレンジを加えたフォルクローレ・サヤも生まれる[3]。フォルクローレ・サヤには、弦楽器や管楽器の演奏が加わることがある[3]

衣装

楽器奏者や踊り手の衣装には地域差がある[4]梅崎かほりによる2003年から2006年の現地調査によれば、ユンガス地方北部のトカーニャでは、帽子はフェルト地で、白色を基調とした衣装を身にまとい、女性のブラウスは飾りテープで装飾されている[4]。一方、南部のチカロマでは、帽子は赤色と白色のリボンを垂らした麦わら帽子で、衣装は赤色を基調とする[4]。カポラルの衣装は共通点が多く、両地域とも、つばが広い白色の麦わら帽子を被り、襟元に赤色のスカーフを巻く[4]

女性の衣装には、ポジェラの着用などアイマラの影響もうかがえる[4][5]。梅崎は、サヤの衣装は流動的であり、その時々の演奏グループ・参加者の嗜好が反映されているとする[6]。2001年にベネズエラで開催された文化イベントでトカーニャ出身のグループの演奏を鑑賞した石橋純は、2拍子系のサヤのリズムはアフロ的である一方、そのリズムに合わせてゆるやかに腰を回転させながらポジェラをはためかせる踊り手からはアイマラ文化が感じられるとする[5]

歴史

16世紀にスペイン人によってアフリカから連行された諸民族がアフロボリビアのルーツであり、18世紀頃までポトシ銀山で鉱山労働に従事し、銀採掘が衰退して以降は、ユンガス地方の大規模農園に移され、集落が形成された[7]。「サヤ」は、キコンゴ語で労働歌を意味する「ンサヤ」が転じたものと考えられている[8]。遅くとも1870年代には現代にまで伝わる演奏様式が確立しており、古いものとして、奴隷解放を祝うコプラの歌詞が伝承されている[9]

1952年の農地解放以降、ボリビアでは民族運動が盛んとなるが、スペイン系とアルティプラノの先住民であるケチュア・アイマラの関係を軸に進められたことから、スペイン系でもなければ先住民でもないアフロボリビアは蚊帳の外に置かれる状況が続いた[10]。また同時に、スペイン文化・アンデス文化のいずれにも属さないアフロボリビアは、近隣の集落や都市の住民から奇異の目で見られ、ブラックフェイスのような差別的模倣の対象となっていく[9]

1970年代に入り、サヤの要素を一部取り入れたカポラレスが流行し、ラパスオルロのカーニバルで演じられていく[9]。カポラレスは、踊り手であるカポラルの外観を模倣している一方で、そのリズムは伝統的なサヤとは異なるものだった[9]。これに、アフロ・ボリビアはアイデンティティを侵されたと反発し、サヤの復権運動が始まっていく[9]。1980年代初頭にユンガス地方北部のコロイコのアフロボリビアがサヤの公演を始め、これが発展する形で1988年にラパス市内で「Movimento Cultural Saya Afroboliviano」が結成される[5][11]。同グループは、カポラレスのリズムを「サヤ」と呼ぶアーティストたちに撤回を求めると同時に、マスメディアを通じてアフロ・ボリビアの伝統的なサヤの普及活動を展開していく[5][11]。同グループの運動が実を結んだ結果、2000年頃にはボリビア国内でカポラレスとサヤは別種の音楽ジャンルであると認識されるようになった[5][11]

出典

参考文献

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