シエラレオネ会社

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シエラレオネ会社が発行した1ドル貨幣(1791年)

シエラレオネ会社(シエラレオネがいしゃ、英語: Sierra Leone Company)は、1791年に王室勅許を受け、西アフリカのシエラレオネ半島における植民地の再建と運営に関与したイギリスの勅許会社である。1787年の最初の入植の失敗後、同社は奴隷制度廃止運動を支持するイギリスの改革派・慈善家らの支援を受けて設立され、1792年にはノヴァスコシアから移住した黒人入植者を中心にフリータウンを建設した[1][2]。もっとも、同社の経営は安定せず、1799年以後はイギリス政府の補助金に依存するようになり、1808年に植民地の統治はイギリス政府へ移された[2]

18世紀後半のイギリスでは、解放黒人や旧奴隷をアフリカ西岸へ再定住させる構想が生まれた。1787年にはロンドンの「ブラック・プア」と呼ばれた人々などがシエラレオネ半島へ送られたが、この最初の入植は疾病や現地情勢の悪化によって長続きしなかった[1]。その後、この事業は新たな会社組織へ引き継がれ、シエラレオネ会社の設立へとつながった[1]

設立

ジョン・クラークソン

シエラレオネ会社は1791年に王室勅許を受けて成立した。設立にはグランビル・シャープトマス・クラークソンヘンリー・ソーントンら反奴隷制運動の指導的人物が関与し、特にジョン・クラークソンは入植者募集と植民地形成の実務において重要な役割を果たした[3]。会社は、奴隷貿易に代わる「正当な商業」を西アフリカで育成しうると期待され、慈善的事業であると同時に商業的事業としても構想された[4][5]

フリータウン建設と移住民

1792年、会社はアメリカ独立戦争後にノヴァスコシアへ移住していた黒人ロイヤリストの一部をシエラレオネへ移し、新しい植民都市フリータウンを建設した[1]。これらの入植者は、1787年の最初の入植地とは異なる新たな共同体の中核を形成し、のちのフリータウン社会の基盤となった[1]。さらに1800年には、ジャマイカから移送されたマルーンの一団も到来し、植民地社会の構成と秩序維持に影響を与えた[1][2]

統治と事業

シエラレオネ会社は、植民地の行政と交易の双方を担う存在であった。会社の支持者たちは、奴隷貿易とは異なる通商の育成を期待していたが、当時の地域経済で最も利益を上げていたのはなお奴隷貿易であり、会社はこれに従事しなかったため、安定的な収益基盤を確立できなかった[2]。また、植民地の憲政上の地位が不明確であったことも、統治上の困難の一因となった[2]。こうした点は、西アフリカにおける「正当な商業」の形成過程を論じる研究でも指摘されている[4][5]

財政難と政府移管

1799年以後、シエラレオネ会社の植民地はイギリス政府による年次補助金なしでは維持が難しくなった[2]。こうした事情のもとで、1808年にイギリス政府は植民地に対する直接責任を引き受け、会社による統治は終了した[2][6]。以後のフリータウンは、西アフリカにおけるイギリスの行政活動や奴隷貿易取締りの拠点の一つとなっていった[7]

評価

シエラレオネ会社は、奴隷貿易廃止を背景とする植民地形成の実験として位置づけられる一方、会社組織による統治の不安定さと商業的限界も示した[2]。歴史研究では、同社は反奴隷制運動の制度化、西アフリカにおける「正当な商業」の模索、ならびに後のフリータウン社会の形成過程を理解するうえで重要な事例とされている。他方で、その事業は植民地主義的実践とも切り離せず、理念と統治現実の緊張を示す事例でもある[3][4][5][2]

脚注

参考文献

関連項目

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