ジュラ・ヤクシッチ
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現セルビアの中央バナト郡のスプルプスカ・ツルニャ(Srpska Crnja)で司祭の息子に生まれた[1] 。現ハンガリーのセゲドなどで教育を受けた後、現ルーマニアのティミショアラでスロバキア人の画家に絵画を学んだ後、ブダペストの私立美術学校で学ぶが、1848年の革命に志願兵として参加し、スルボブラン近郊で負傷したなどで、修行を中断しセルビアに戻った。
法律家のもとで働きながら絵の修行を続け、1851年にウィーンに移り芸術家たちと親交を結んだが、貧困のために故郷に戻り、1853年にはミュンヘン美術院でも学んだ[1]。1855年末からセルビアのキキンダに住み、絵画で生計を立てた。詩を書き、雑誌にペンネームで発表した。後には戯曲や小説も執筆した。
セルビア各地で、美術教師などや肖像画として働いた。セルビアの歴史を題材にした絵画も描いた。ボヘミアン的な生活を送り、常に貧困の中で暮らし、家族を養うのが困難であり、借金に苦しんだ。さらに結核にかかり、1871年に裁判ざたを起こし、公職から解雇された。
友人の助けで、1872年に国立印刷所で仕事を得て、1878年からはベオグラードの国立印刷所の校正係として働いたが、その年、46歳でベオグラードで亡くなった。
ヤクシッチの文学作品にはセルビアの歴史を題材にした戯曲「Seoba Srbalja」(1862)や「Jelisaveta kneginja cronogorska」(1868)、「Stanoje Glavaš」(1878)などがある[2]。
