ジーロ・アウトモビリスティコ・ディターリア
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1901年に初開催された「ジロ・デ・イタリア・オートモービレ」は、イタリア半島を周回する自動車競技である。1973年から1980年にかけては同名の自動車レースが開催されていた。このレースはイタリア北部の都市トリノを発着点とし、ローマまで南下して再び戻るというイタリア全土を周回する壮大なイベントであった。総走行距離は2,000kmを超え、特徴は、コースの途中に組み込まれた「サーキットでのスピードレース」と「公道でのラリー・ヒルクライム」を融合させた点にある。
1973年の再開以降、F1やスポーツカーレースのトップドライバー(リカルド・パトレーゼ、ジョエル・グイエ等)と、ラリーの(マルク・アレン、ミキ・ビアシオン等)が同じ車両をシェアして戦うという、他に類を見ない華やかな競技となった。
歴史



大きく3つの時代に分けられる。
黎明期:1901年
イタリア初の本格的な長距離自動車レースとして開催された。
第1回大会(1901年): イタリア自動車クラブ(ACI)の前身が主催。トリノを出発し、ジェノヴァ、フィレンツェ、ローマ、ボローニャ、ミラノを経て再びトリノに戻る、総延長1,642kmの長い行程であった。
意義: 当時の未整備な道路状況において、自動車の信頼性と耐久性を証明する「冒険」としての側面が強かった。フェリーチェ・ナザーロがフィアット・8HPを駆り、平均時速約30kmで完走し優勝した。
再興と戦前:1934年
一時の中断を経て、ファシスト政権下のイタリアで「コッパ・ドーロ・デ・イタリア(Coppa d'Oro d'Italia)」として復活した。
1934年大会: 全長5,687kmという過酷なルートで行われ、ランチア・アストゥーラを駆るカルロ・ピンタクダが優勝。この時代は「都市間レース」の色が濃く、伝説的なミッレ・ミリア(Mille Miglia)と並ぶイベントとみなされていた。
黄金時代:1973年 - 1989年
現在「ジロ・デ・イタリア」として最も広く記憶されている時代である。サーキットレースとラリーを組み合わせた近代的なフォーマットが確立された。
1970年代(ストラトスの時代): 当時、ラリーでの主戦場をグループ内のフィアット(131アバルト等)に譲る形となっていたランチアは、この種の複合イベントに活路を見出し積極的に参戦した。1973年に再開されると、ランチア・ストラトスがその圧倒的な強さを見せつけた。1974年には、後にフェラーリのF1チーム代表やFIA会長を務めるジャン・トッドが、ジャン=ピエール・ニコラのコ・ドライバーとして参戦し優勝している。1976年には「ランチア・ストラトス ターボ(グループ5)」が投入され、サーキットとラリーの両ステージで圧倒的なパフォーマンスを発揮し、見事に総合優勝を飾っている。
1980年代(メーカーの威信):ランチア、フィアット、アルファロメオといったイタリアの主要メーカーが、自社の最新技術を誇示する場となった。
1979年・1980年: ランチア・ベータ・モンテカルロ・ターボ(グループ5)が連覇。
1988年・1989年: アルファロメオが「アルファ75 Turbo IMSA」を投入。F1ドライバーのリカルド・パトレーゼと、WRC王者のミキ・ビアシオンが同じ車を操るという体制で連覇を果たし、幕引きとなった。
2011年以降
オリジナルの競技形式としての開催は1989年で終了したが、2011年に「レボリューション(再考)」として一時的に復活。2025年現在は、ヒストリックカーによるレギュラリティ・ラン(設定された時間を正確に走る競技)として、当時の精神を継承するイベント「オートジロ・デ・イタリア」等が開催されている。
車両規定
本競技はFIA(国際自動車連盟)のグループ1からグループ4、後のグループBやグループAといった規定に準じた車両で競われた。
灯火類の義務: 本競技はサーキット専用車ではなく、公道セクション(リエゾン)を走行する「ラリー」の側面を持つため、イタリアの道路交通法を満たす必要があった。そのため、夜間や霧の中の山岳路走行に備え、ヘッドライトおよびブレーキランプ等の保安部品の装備は厳格な必須事項であった。
特殊仕様: 1980年代後半には、アルファロメオ・75がIMSA規定(北米のツーリングカー規定)に近い大幅な改造を施されて参戦したが、これらも公道走行のための最低限の保安基準をクリアしていた。