ストレリツィの蜂起 (1682年)

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モスクワ総主教ヨアヒム英語版が群衆を落ち着かせようとしている間、イヴァン5世がまだ生きていることを証明するために、ナタリヤ・ナルイシキナストレリツィ連隊に向けて掲げている。

この1682年のストレリツィの蜂起(1682年のモスクワ蜂起)(ロシア語: Стрелецкий бунт)はモスクワ・ストレリツィ連隊(モスクワの歩兵連隊)によって引き起こされた反乱である。この反乱には1676年に死去したロマノフ朝モスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)の第2代ツァーリアレクセイ太公の死後に起きた2人の妻、マリヤ・ミロスラフスカヤナタリヤ・ナルイシキナとの間の権力争いという側面があった。

反乱の結果、国家の権力はアレクセイ太公とマリヤ・ミロスラフスカヤの娘であるソフィア・アレクセーエヴナ摂政に就任、若帝であることからも事実上の君主として集中することとなった。

反乱の発端

1682年4月27日(旧暦5月7日)フョードル3世の死がこの反乱の遠因となった。ナタリヤ・ナルイシキナら、ナルシキン兄弟は彼ら自身の空位期間を利用し、総主教に彼女の10歳の息子のピョートル(後のピョートル1世)を新しいロシアのツァーリとして宣言させた。前ツァリナの故マリヤ・ミロスラフスカヤの親族を中心とするミロスラフスカヤ家はナルイシキナ家がマリヤの娘、ピョートル1世の異母兄のイヴァンを抑圧し、さらに前ツァーリのフョードル3世をモスクワ・クレムリンで毒殺していたという噂を広げた。

反乱鎮圧後にナルイシキナ家が建てさせたフィリの生神女庇護教会英語版

ミロスラフスカヤ家の共謀者たちはモスクワ・ストレリツィ連隊の指揮官に対するへの不満を利用し、首都モスクワの街路での暴動を扇動した。1682年5月11日、暴徒化したストレリツィはモスクワのクレムリンを占領し、当時支配階級であった主要なボヤールを虐殺、彼らが汚職を疑う軍指令官であったアルタモン・マトヴェーエフ、ミハイル・ドルゴルコフ、グレゴリー・ロモダノフスキー英語版を殺害した。

クレムリン第二襲撃

貧しい群衆は暴徒化してストレルツィと合流し、モスクワの街では数日間にわたり略奪が続いた。これを五月蜂起と言い、この蜂起の結果ピョートルから見た一番上の異母兄、イヴァン5世が「第1のツァーリ」として即位し、若きピョートル1世は次の地位に降格、共同統治体制が敷かれることになった。またイヴァン5世の実妹、ピョートル1世の異母妹にあたるソフィアが、二人の摂政として統治することとなった。

ホヴァーンスキー事件

1682年秋、ソフィアの側近であり、実際に反乱を起こしているモスクワ・ストレリツィ連隊の隊長であるイヴァン・ホヴァーンスキー公英語版はソフィアへ反旗を翻した。この事件はホヴァーンスキー事件と呼ばれている。ホヴァンスキーはソフィアの代わりに自らが摂政に就任することを企み、ロシア正教会古儀式派らの支持を受けようと、モスクワ総主教ニーコンによる改革の撤回を要求した。

(この改革の詳細はロシア正教会古儀式派またはモスクワ総主教ニーコンを参照)

ソフィアとその側近はモスクワ・クレムリンから逃げなくてはならなくなり、モスクワ北東70キロメートルに位置するセルギエフ・ポサードの町にある修道院至聖三者聖セルギイ大修道院へと避難した。一方で最終的には、ソフィアはモスクワ・ストレリツィ連隊隊長であったホヴァーンスキーの後継者、フョードル・シャクロヴィートゥイ英語版の協力を得てホヴァンスキー事件の鎮圧に成功した。

系図

関連項目

参考文献

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