スピットヘッドとノアの反乱
From Wikipedia, the free encyclopedia
2つの反乱は、いずれも海軍の兵士による、待遇への不満に起因するものであった。
同様な不満にもとづく小規模な事件はその年、他の場所でも発生した。その年はフランスの革命政府との戦争の最中であり、反乱はイギリスにとって極めて深刻な事件であった。イギリスの支配階級は、反乱が拡大することによりフランス革命のような、より広範囲の蜂起の引き金になるかもしれないという強い懸念を持っていた。
スピットヘッド
ポーツマス近くの停泊地、スピットヘッド(Spithead)における反乱は、1797年4月16日に起こり、5月15日まで続いた。これは、ブリッドポート提督率いる海峡艦隊の16隻の軍艦の水兵が、軍艦の生活環境と給与の低さに抗議し、その改善を求めたものである。
水兵の賃金は1658年に決められ、ずっと固定されていた。それは40年前の七年戦争(1756年 - 1763年)当時まではおおむね妥当なものであったが、18世紀末の最後の10年間に起きた急激なインフレーションによって、ひどく目減りしていた。あわせて、1761年に始まった、船底を銅の外皮で覆う手法によって、軍艦が船底の掃除のために港に戻る必要が少なくなったため、海上勤務はさらに長く辛いものになっていた。イギリス海軍はこれらの変化にたいして何の手も打たず、乗組員の不満もなかなか理解しようとしなかった。
反乱は選ばれた代表によって率いられていた。彼らは2週間の間、海軍本部と交渉を試みた。彼らの要求はより良い賃金、「パーサーズ・ポンド」(主計長が肉の1ポンドにつき2オンス(つまり8分の1)を自分のものにしてよいとする習慣)の廃止、水兵に嫌われている少数の士官の排除と、そして反乱に参加した者への鞭打ちと強制徴募の免除であった。反逆者は彼らの艦に乗り組んだまま(大部分は士官らも一緒に)通常の勤務を続けており、数隻を輸送船団の護衛任務またはパトロール任務に割くことを認め、またフランス艦がイギリス近海に現われた時は反乱を中断して直ちに出動すると約束した。
しかし、不信のため、特に反逆者への恩赦に関する不信によって、交渉は決裂した。そして、数名の嫌われ者の士官を陸上に送り返すという事件があちこちで発生した。この状況が一旦落ち着いたあと、ハウ提督が交渉の仲介に乗り出し、すべての乗組員の恩赦と嫌われ者の士官の数名の配置替え、それに「パーサーズ・ポンド」の廃止と昇給を約束した。後にこの反乱は「スピットヘッドの微風(Breeze at Spithead)」とあだ名された。
反乱の指導者の名前は決着がついたのちも明かされなかったが、時の噂では、バレンタイン・ジョイスが首謀者とされていた。バレンタイン・ジョイスは、ブリッドポート提督の旗艦「ロイヤル・ジョージ」の操舵手のひとりであった。
