セミョーン・チモシェンコ
ソヴィエト連邦軍元帥(1895 - 1970)
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
出自
1895年、ベッサラビア県アッケルマン郡フルマンカ村(現在のウクライナ共和国オデッサ州キリヤ地区フルマニウカ)の貧農の家庭に生まれる。1914年、ロシア帝国陸軍に召集され、機関銃手として第一次世界大戦に従軍。
ロシア内戦と両大戦間
1917年、第1黒海赤衛隊に入隊し、コルニーロフ軍の撃滅に参加。1918年、黒海赤衛隊に基づき創設されたセミョーン・ブジョーンヌイの第1騎兵親衛連隊において、小隊長、中隊長としてクリミア及びクバンで戦い、間もなく連隊長となった。同年11月、第2独立騎兵旅団長。1919年、第6騎兵師団長として、ヴォロネジ、カストルナヤ、ロストフ・ナ・ドヌ、エゴルルイクスカヤ、ジトーミル、ブロディの戦いに参加。
1920年8月、第4騎兵師団長としてヴランゲリ軍とマフノ軍を撃破し、赤旗勲章2個を授与された。その後、第3騎兵軍団長。1922年と1927年に高等学術課程、1930年に軍事政治アカデミー附属総合指揮官課程を修了。1933年、白ロシア軍管区副司令官に任命され、在任中にゲオルギー・ジューコフと知り合う。
1935年9月、キエフ軍管区副司令官に任命。1937年、北カフカーズ軍管区司令官。その後、ハリコフ軍管区司令官を経て、1938年2月にキエフ特別軍管区司令官。1939年9月、ポーランド領となっていた西ウクライナ奪還のためポーランド侵攻を指揮。
1940年1月、北西戦線司令官となり、マンネルハイム線の突破を指揮。冬戦争での功績により、ソ連邦英雄の称号が授与された。
1940年5月、クリメント・ヴォロシーロフの後任として国防人民委員に就任し、ソ連邦元帥に昇進した。
独ソ戦
1941年、ドイツ国防軍がソ連に侵攻すると、西部戦線司令官及びその上位に置かれた西部方面軍総司令官に転任(国防人民委員はスターリンが兼任)。また、ソ連軍総司令部(STAVKA)が設置されると、委員の一人になる。
1941年9月から12月と1942年4月から7月、南西戦線司令官。1941年9月から1942年6月まで南西戦線の上位に置かれた南西方面軍司令官も兼任している。1942年7月、スターリングラード戦線が設置され、チモシェンコはその司令官となる。同年10月、北西戦線司令官に転任。その後、総司令部議長として各戦線間の行動の調整に当たった(1943年3月-6月:レニングラードとヴォルホフ戦線。1943年6月-11月:北カフカーズ戦線と黒海艦隊。1944年2月-6月:第2と第3沿バルト戦線。1944年8月-終戦:第2・第3・第4ウクライナ戦線)。
戦後
終戦後、バラノヴィチ軍管区司令官。1946年から1949年まで南ウラル軍管区司令官。チモシェンコは白ロシア軍管区を自分の第2の故郷と考えており、1949年に同管区の司令官に返り咲いた。また、ソ連共産党中央委員会委員、ソ連最高会議代議員として、白ロシアの経済問題の解決を助力した。
1960年4月、定年により国防省監察総監に編入。1961年から1969年までソビエト古参兵士委員会議長。1970年、死去。遺体は赤の広場のクレムリンの壁墓所に埋葬された。
表彰・受勲
人物
趣味は乗馬、狩猟、読書。