蘇志摩利
雅楽の一曲
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由来
『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述[1]を引用した『先代旧事本紀』(序文部分は日本紀講筵の際提出された偽書とされる)巻第四 地祇本紀[2]の素戔烏尊によるヤマタノオロチ退治の前段の分注記事による。
素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣
スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利(ソシマリ)はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。
しかしこの『先代旧事本紀』は平安時代に作られた偽書であり、該当部分の原典は『日本書紀』 卷第一[3] 第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に出てくる曾尸茂梨についての記述である。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇
スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨(ソシモリ)に居た。スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。
従って楽曲としての名称は「ソシマリ」(蘇志摩利)または「ソシモリ」(蘇尸茂利)であるが、その名称の元になった伝説上の地名は「ソシモリ」(曾尸茂梨)の方であって「ソシマリ」ではないから注意が必要である(ソシマリはソシモリが訛ったものである)。
諸説
『釈日本紀』(述義)にある陽成天皇による878年(元慶2年)の日本紀講筵の元慶度講書(878年(元慶2年)-881年(元慶5年))で、惟良宿禰高尚(惟良高尚)がソシモリを今の蘇之保留と解説し、その分注に「此説甚可驚云々」とされた。その後、江戸時代の国学勃興者までながらく議論らしきものはなかったが、江戸時代から戦前にかけて『日本書紀』の曾尸茂梨が現在のどこにあたるのか盛んに議論され、候補地をあげる説が次々あらわれ、その数は戦前の段階で北は咸鏡北道から南は済州島まで、朝鮮半島の各地に8ヶ所にも及んだ。
- それらの中で比較的有名な説は、吉田東伍の「古代半島諸国興廃概考」(1891年(明治24年)8月号『史学会雑誌』21号p.21~22。)で、曾尸茂梨を江原道春川郡の牛頭山とし、素戔嗚尊が彼の地にあまくだったのは西暦紀元前4世紀と推定した。同論文は後に、『日韓古史断』(1911年(明治44年))[4]の34-35ページの記述[5]となり [6]、この説に準拠して朝鮮の江原道春川郡の牛頭山に江原神社がつくられた。(1918年(大正7年)に社が建てられ[7]、1941年(昭和16年)10月1日、国幣小社になった。)
しかし場所についての論争に決着はつかないままである。
またソシモリの語源や語義についても戦前から多くの説がある。