チャーイケーオ
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即位したときはいわゆる、ラムパーンなどの地域は混乱期であり、チャーイケーオは国主の座をめぐって暗殺されそうになり、家族共々、友好国であったプレーに逃げ込んだ。チャーイケーオはプレーで250人の兵を組織すると、ラムパーンに攻め込んだが失敗し、弟を一人失った。
その後、この混乱を制す為にビルマは軍を送りラムパーンを制圧、チャーイケーオを再び王位につけ、国主の座を簒奪しようとした者達を投獄・処刑した。1766年のビルマのアユタヤ攻略においてはチャーイケーオはビルマ側を支援、アユタヤの陥落に一役買った。
しかし、1774年息子のカーウィラがビルマから離反し、アユタヤ王朝の跡を継いだタークシンの元へつき、その元でシャムによりラムパーンの国主となり、チャーイケーオは実質、ラムパーンの国主ではなくなった。なお、チャーイケーオは後に、カーウィラによってビルマから救出された。