1899年にアトランティック・マンスリー誌に「都市生活の改良」について3編の記事を掲載、その一編で「審美的進歩」を論じる。ハーパーズ・マンスリー誌はこの続編を欲し、ロビンソンをヨーロッパに再度送ることになる。以降、彼の役割はシビックアートの宣伝担当とでも呼ぶべき存在になる。1900年、ウェット・アンド・カンパニー(ニューヨーク州ロチェスター)から『ロチェスターの方法』を刊行。そして、これをきっかけに、都市計画のガイドを書くようになった。
都市美運動がその形態を完成していた1901年、最初の著書である『町と市の改善――シビック美学や実用的な基本』(Putnam's Sons刊, ニューヨーク)が刊行される。この書は、夥しく相互に関連した都市美のための闘いとして運動について初めての公式記録であり、序文のなかでロビンソンは、イギリスやベルギーなど西欧諸国で当時活動中の百十団体を超える協会を掲載し、これについても取り組みの一部に過ぎないと述べている。「新しい信頼と努力に向かってこれらの同盟軍を激励するために、現時点の戦闘記録を編集したのである」と、約300ページ後に彼は結論づけていた。
要点は、「町や市の美のための楽しくかつ熱心な新しい改革運動」という都市美の統一目的を提示することにあった。このことを目指して、関係する団体すべてのためのマニュアルとして同書を著したのである。この書は、活動の「方針に沿って行なわれてきた最善策」を彼らに周知させるのみならず相互依存と同盟による企ての精神を喚起するためのものであった。具体的な目標すべてを論理的に秩序立て、「取り組みにおける協調」と「主体間の相互依存」を示すことによって、彼は「論理的で調和のとれた成果」を奨励することを望んだのである。じつに忠実に明言した都市美運動の目的は、当時のワシントン計画の教訓による都市美運動の非凡な受容力を説明している。
しかし1901年の時点では、都市美運動はどんな地域の改良協会でも企てているような漸進的な活動によって成長を続けていた。この著はこれら活動の相互関連を強調するべく当時存在していた諸実践を受け入れたのである。副題の「公共空間の美の実践的基礎」とは、改善アイデアについての現存蓄積の検討を意味していた。冒頭の章では、敷地選択の原則を論じている。都市は丘の上や海岸のように無視されてきた立地上の有利さを活用しうるものの、システマティックなアプローチをいまだ供していないと持論を張る。次に、現存の区画を改良する方法としてウィーンの有名な環状街路といったモデルを支持して理想的な街路体系を概説した。街路の美に関する五つの章では、植樹や架線地中化から、街路設備の広告規制に至るまですべてに言及していた。「社交的で博愛的な取り組みの審美的側面」についての後続の四つの章は、パークウェイ、装飾された広域運動場や建築装飾、歴史的保存といった建築学の概念を取り上げて、野外芸術や自治体芸術を称えている。彫刻~芸術教育、シビックアートを実現する方法の章で同書は締めくくられている。
ロビンソンの著書刊行の直後、スプリングフィールド・リパブリシャン誌は「マサチューセッツ州スプリングフィールドで美しい都市を実現しよう」というタイトルで16編の記事を特集している。
刊行元はこの類の本に需要があることに疑いを持ち、ロビンソンが印刷費を持つことを刊行条件としていた。しかし発売されるやいなや、じつによく売れることになる。1916年までにこの著は11版まで増刷を重ねて、アメリカの多くの人々に読まれていく。
また同年の著書『町と市の美化』は、街路計画、街路の美化としての電線地中化、建築の美的規制、交通の規制、広告の規制、街路樹・公園・遊び場の必要性、そして公衆教育の重要性を訴えているほか、1904年に開催するセントルイス世界博覧会にむけてアルバート・ケルシーによるモデル都市展示会場案に助言している。
1903年、『近代の都市美、または都市が造る美』(GP Putnam's Sons刊, ニューヨーク)を、1908年『市の叫び』(ポールエルダー&カンパニー、サンフランシスコ/ニューヨーク)を刊行。
1916年、『都市計画』(GP Putnam's Sons刊, ニューヨーク)を刊行。