デド1世は、1046年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世からラウジッツ及びテューリンゲンの2つの辺境伯領を委ねられたことが『アルタイヒ年代記(Annales Altahenses)』に見える。のちにこれら2つの辺境伯領は統合されたが、11世紀半ばにはまだそれぞれが独立した支配領域を形成していた。
ザクセン貴族の反乱(1073年)が始まる前の1069年に、ドイツ王ハインリヒ4世とデド1世との間で軍事衝突が起こり、デドが王室財産も含む領土を力で奪おうとした。さらに、年代記によると、東ザクセン貴族は自身の権利が制限されていると感じており、デドとハインリヒ4世との衝突が東ザクセン貴族とザーリアー家との緊張につながったという。ヴェッティン家の動きに対し、ハインリヒ4世は集めた軍を率いてチューリンゲンおよびザクセンに向かった。衝突に際し、デドは継娘アーデルハイト(2度目の妻アデールと前夫との子)の夫バレンシュテット伯アーダルベルト2世(アスカーニエン家)の加勢を得ることができた。ブルクシャイドゥンゲン城およびバイヒリンゲン城の制圧の後、デドは状況が絶望的であるとみて降伏した。デドは王に捕らえられ、広大な領土を明け渡すことになった。さらに、デドは辺境伯位を没収され、息子デド2世が辺境伯に任命された。同年(1069年)のデド2世の暗殺の後、ハインリヒ4世とデド1世は和睦し、辺境伯位はデド1世に戻された。
1073年、東ザクセン貴族がハインリヒ4世に対し反乱を起こし、デド1世はそれに加わった。しかし、1069年以降デド1世は穏健派となっており、ゴスラーにおいて東ザクセン貴族らの怒りを鎮めようとしている。1074年2月の最終的な解決の前にデドは立場を変えたとみられ、その後起こった衝突に参加しなかった。1075年、デドはハインリヒ4世のために、ザクセンに侵入してきたキエフ大公イジャスラフ1世の防衛を引き受けた。にもかかわらず、デドは息子ハインリヒ1世を人質に差し出さなければならなかった。
デドは長い病の後、1075年に死去した。