ドッジ・ライン
1949年2月に、日本経済のために実施された財政金融引き締め政策
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時代背景
ドッジの認識
実施内容
- 一般会計のみならず、特別会計、政府関係機関勘定を含めた総予算での超均衡予算
- 総合収支が以前の赤字から黒字に転じた
- すべての補助金の可視化及び廃止
- 貿易管理特別会計などに含まれていた事実上の補助金の可視化と価格差補給金などのすべての補助金を廃止し、財政健全化に寄与
- 復興金融債券の発行と新規貸し出しの停止
- インフレ要因を根絶し、復金インフレの打開、通貨供給の抑制
- 1ドル=160 - 600円[5]であった複数レート制の改正による、1ドル=360円の単一為替レートの設定
- 市場メカニズムに依拠した日本経済の国際市場の復帰が可能になった。なお、1ドル=360円となった理由はダグラス・マッカーサー が「円は360度だから分かりやすい」発言から来ているとする説もある[6]。
- 物資統制と価格統制の漸次廃止、自由競争の促進
- 市場メカニズムの機能が改善
影響
ドッジ不況
復金インフレの収束と、市場の機能改善、単一為替レートによって日本経済が世界経済にリンクされ国際市場への復帰が可能になったことなどが好影響として挙げられる[7]。その一方で、デフレーションが進行し、失業や倒産が相次ぐ「ドッジ不況」(安定恐慌)が引き起こされ、1950年(昭和25年)7月6日には、ついに東京証券取引所の修正平均株価(現:日経平均株価)は、算出来の安値となる85.25円を記録した。これは現在に至るまで史上最安値となっている。
金融引き締めの影響
金融引き締めに伴う大企業の首切り・合理化は熾烈を極めたが、同時期に国鉄、専売局が公社化されたことも相まって、社会は混乱した。 こうした首切りに対して労働組合側は反対闘争で応じたが、中でも60万人の組合員を擁する国鉄労働組合(国労)は、その中心勢力であった。国労組合員10万人の首切りが成功するかどうかがドッジ・ラインの成否を左右すると言われていた状況下、下山・三鷹・松川の国鉄三大事件が発生するなど、結果として合理化は成功したが社会情勢は非常に不安定になった。
金融緩和への方向転換
FRB(連邦準備制度理事会)の元理事でGHQ顧問であったタマナ (Frank Tamagna) が日銀の政策を研究し、東洋経済新報社発行の英文月刊誌オリエンタル・エコノミストを支持した。この結果、貸付を厳しく制限していた日銀が1949年半ばに態度を変え、政府預金の一部をいくつかの大手銀行の口座に移す調整をはじめた。また、大企業への大型融資を複数の銀行銀行で共同融資し、貸し出すことを認めた[8]。大型融資事例としてトヨタ自動車1950年危機が有名である。
朝鮮特需によるドッジ不況の終焉
1950年の朝鮮戦争の勃発で朝鮮特需により、1950年だけで1億4988万9000ドル(GDPの約5%)を受注し、好景は好転することとなった[9]。
