ドワイト・フィリー・デービス
アメリカのテニス選手、政治家 (1879-1945)
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生い立ちと初期の経歴
テニス競技
ドワイト・デービスはハーバード大学において、テニスクラブに所属していた。彼は左利きの選手である。学生時代から、デービスはホルコム・ウォード(1878年 - 1967年)、マルコム・ホイットマン(1877年 - 1932年)とともに「ハーバードの3人組」(The Harvard Three)と呼ばれた。1898年、デービスは全米選手権の男子シングルス決勝でホイットマンに敗れた。彼はウォードとのダブルスで多くの好成績を残し、彼との1899年全米から1901年全米にかけて全米選手権の男子ダブルスで3連覇を達成した。デービスとウォードは、1901年ウィンブルドン選手権での男子ダブルス準優勝もある。
ハーバード大学在学中の1899年、デービスは大学のクラブチームのメンバーとともに、イギリスを相手にテニス対決をする構想を立ち上げた。この構想は間もなく両国のテニス協会によって受諾された。デービスは大会の形式を設計し、さらにシュリーブ・クランプ・アンド・ロウ社から自腹で純銀のトロフィーを購入した。デビスカップ第1回大会はアメリカ対イギリスの2国間対決として、1900年8月にマサチューセッツ州ボストンのロングウッド・クリケット・クラブで開催された。デービスはアメリカ代表として第1戦のシングルスと第3戦のダブルスに出場した。第1戦のシングルスはセットカウント 3-1 でデービスが勝利し、ウォードと組んだ第3戦のダブルスもセットカウント 3-0 で勝利を収めた。最終的には、アメリカ代表チームがイギリス代表チームをマッチカウント 3-0 で下した。
1904年、デービスはセントルイス五輪に出場した。男子シングルスではベスト16で失格となった。男子ダブルスではラルフ・マッキトリックと組み、準々決勝まで進んだ。
セントルイスでの政治
第一次世界大戦

第一次世界大戦が開戦すると、デービスはプラッツバーグ軍事キャンプに参加した[3]。続いて、1916年から1917年までロックフェラー戦争救済委員会のメンバーとして、戦災者の救援活動を行った[3]。
1918年、デービスはミズーリ州兵に参加した[4]。その際に国家陸上警備隊の一員として第35歩兵師団に所属した[3]。彼はフランスにも派遣され、サンミエルの戦いとムーズ・アルゴンヌの攻勢に参加した[3]。そして、第69歩兵連隊の参謀長として少佐の地位を与えられた[1]。
デービスはフランスでの戦闘を評価され、レジオンドヌール勲章を受勲した[4]。また所属する旅団のために、敵地で「自らに課した任務」として情報収集を行ったことを評価され、殊勲十字章を受勲した[1]。
戦後の1920年、デービスは連邦上院議員を目指したが、敗北した[1]。1921年、デービスはワシントンD.C.で戦時金融公社の取締役に就任した[3]。
陸軍省での政治

デービスは1923年から1924年まで陸軍次官補を務めた[3]。彼は空軍力の欠乏を指摘した陸軍航空隊の副司令官ウィリアム・ミッチェルを非難し、論争を巻き起こした[1]。
ドワイト・デービスは1925年10月、カルビン・クーリッジ大統領から第49代陸軍長官に任命された[3]。デービスは陸軍組織の拡張政策をとり、また戦時に国内産業を流動的に動員できるシステムの構築を目指した[1]。さらに、機械化された部隊の実用化を試みた[3]。クーリッジ大統領の任期満了により、デービスは1929年3月に陸軍長官を退任した。
フィリピン総督
1929年7月、デービスはハーバート・フーヴァー大統領からフィリピン総督に任命され、1932年1月までこの職務を務めた[3]。
