ハインリヒ1世は、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世と、その2番目の妻ユッタ(ザクセン公アルブレヒト1世の娘)の息子である。そのあだ名「欠地伯(ohne Land)」の由来は不明であるが、異母兄ヨハン2世、オットー4世およびコンラート1世より15歳以上年下であったため、兄弟が辺境伯領を継承した際には、統治から除外されていた可能性が高い。
ハインリヒ1世が領地の統治に参加するようになったのは1294年になってからである。ボヘミアの年代記作家プルジーク・プルカヴァによると、ハインリヒ1世はデーリッチュを居所とした。デーリッチュは、マイセン辺境伯アルブレヒト2世がブランデンブルク辺境伯家に売却したランツベルク辺境伯領内にあった。それ以降、ハインリヒ1世はほぼすべての文書において、ブランデンブルク辺境伯に加えてランツベルク辺境伯の称号も使用した。ランツベルク辺境伯として、ハインリヒ1世は近隣諸侯との数々の争いに巻き込まれ、マクデブルク大司教ブルヒャルト2世によって破門された。
1311年、ハインリヒ1世はザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世との争いに敗れ、ザクセン宮中伯領とザンガーハウゼンのグリッレンベルク城、ラステンベルクのラスペンブルク城をルドルフ1世に明け渡さざるを得なくなった。また、ラウジッツ辺境伯ディートリヒ4世との争いにも敗れた。
皇帝ハインリヒ7世の即位後、ハインリヒ1世の甥ヴァルデマールは、ハインリヒ1世をローマ王に選出することを提案した。ハインリヒ1世はこの提案を断ったようで、証書ではフリードリヒ3世かその弟のレオポルト1世に投票すると約束していた。しかし、最終的にはバイエルン公ルートヴィヒ4世に投票した。
ハインリヒ1世は1318年2月14日、61歳で死去した。