ウォルター・バジョット
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人物
1826年にサマセット州ラングポートで銀行家の一人息子として誕生した[2]。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに進学して数学を専攻した[3]。25歳の時、パリへの旅行中、ルイ・ナポレオンのクーデターを目撃した。この体験が契機となり、エドマンド・バークの保守主義の政治思想に傾倒した[2]。
評論家としては、政治・経済・社会・文芸・歴史・人物と幅広い分野を対象とした。主著の『イギリス憲政論』は、君主制擁護論として事実上、不文憲法であるイギリス憲法の一部として扱われ、バークの『フランス革命の省察』に次ぐ、イギリス政治学の古典となっている。
35歳から51歳で死去するまでの期間、『エコノミスト』紙の編集長を務めた。庶民院に立候補して大敗を喫したものの、ヴィクトリア朝の重要な政治経済評論家として英国金融界に大きな影響力を持っていたため、「第二の財務大臣」と評された[2][4]。
1860年代に家庭環境が悪化、その後のバジェットは偏頭痛や体調不良に悩まされることが増えた[5]。1877年に生まれ故郷のラングポートにて死去した。風邪が原因であったとされる[2][6]。
家族・私生活
バジョット・ルール
大手決済銀行オーバレンド・ガーニー商会破綻に端を発した1866年恐慌に際しては、「中央銀行の意義は貨幣(ポンド)の価値を維持せしめることであり、貸し渋れば厖大な取り付け騒ぎが起こりうる」と提言した結果、イングランド銀行(ヘンリー・ホランド総裁)にその意見が容れられて、「流動性危機」を回避し、恐慌収束に一役買っている[注 1][4][9][10]。
この経験を生かして、1873年の著書『ロンバード街―金融市場の解説』においては、中央銀行の〈最後の貸し手〉機能の重要性を以下のように解説している[11]。
中央銀行が最後の貸し手として貸し出しを行う上でのルールとして次の2点を挙げる。
- 貸付は非常に高い金利でのみ実施すべきこと。
- あらゆる優良担保に基づき、公衆の請求がある限りすべての貸し出しに応じること。
第1のルールは、本来的に貸し付けを必要としない人が念のために融資に殺到するというモラル・ハザード防止のためであり、第2のルールは優良担保を提供できる人の借り入れを拒否することがパニック発生の原因になるためである[12]。また第2のルールに関して、イングランド銀行が損失を受けるような貸し出しは必要ない、と付言している。その理由として、不良取引の額は、全取引のうちのごく一部に過ぎないためである。
著書

- Estimates of Some Englishmen and Scotchmen, (1858年).
- The English Constitution, (1867年).
- Physics and Politics, (1872年)
- 『自然科学と政治学』大道安次郎訳、岩崎出版、1948年
- Lombard Street: A description of the money market, (1873年) - 同年に1873年恐慌が起こった。
- Literary Studies, (1879年).
- Economic Studies, (1880年).
- Biographical Studies, (1881年).
- The Postulates of English Political Economy, (1885年).
- The Works of Walter Bagehot, (1889年).
- The Love Letters of Walter Bagehot and Eliza Wilson, (妻との共著)(1933年).