パルヴィーン・エーテサーミー
From Wikipedia, the free encyclopedia

パルヴィーン・エーテサーミー(پروین اعتصامی, Parvīn E'tesāmī, 1907年3月16日 - 1941年4月5日)は、イラン立憲革命後の女流現代詩人。タブリーズの名家に生まれる。イランでは10世紀のラービア・グズダーリー、12世紀のマフサティー、19世紀のクッラトル・アインと並ぶペルシア4大女流詩人の一人に数えられている。
立憲革命後のイランにおいて、30年余りという短い生涯にもかかわらず豊富な見識により多くの詩群を創作した。
パルヴィーンが生まれた1907年は、前年にイラン国内で立憲革命が起こり、第1次立憲制が開始されイラン初の憲法が発表された年であった。
ナースル・ウッディーン・シャー、ムザッファル・ウッディーン・シャー、ムハマンド・アリー・シャーと続いたガージャール朝末期の政策、特に西欧資本主義国に対する重大な利権の供与やシャー(王)による多額の外債・租税の増大といった国家と国民の利益を無視したやり方に起因するシャーに対する反感の噴出がこの革命の性格であり、イランにおける最大規模の国民運動であった。
日露戦争でのロシアの敗退とその後のロシア国内における立憲制の確立はイラン国民を刺激し、当時イラン国内に出現した革新思想家アフガーニーことサイィッド・ジャマールッディーンに指導された立憲革命はムハマンド・アリー・シャーによる「小専制 استبداد صغیر Estebdād-e ṣaghīr」と呼ばれていた反動政策を克服し、旧来の専制君主制から立憲君主制へと新生イランを成立せしめた。
この後約20年間、イランは欧米帝国主義の産物たる第一次世界大戦の戦場と化し、当時の愛国主義を抱いた詩人は多くの反帝国主義詩を発表しつつあった。そのような時代はパルヴィーンにとっては彼女の父や学校による教育の時期であった。パルヴィーンは就学前はペルシア、アラビアの両文学について父から手ほどきを受け、父のもとに集まってくる知識人から様々な知識を吸収した。彼女の家は当時、父の友人である文学者、学者や弁士たちの集うサロンのような場となり、父と同様、一般的に人前に出るのを嫌った彼女もそのような場では熱心に議論を交わすこともあったという。また、幼いながら見事な詩を読むパルヴィーンに周囲の人々は驚嘆したものであった。
その後、パルヴィーンはアメリカ系の女学校(Iran Bethel)で学び、1924年そこを卒業した。パルヴィーンにとってこの学校で学んだということは後の彼女の考え方や思想の形成に大きな影響を与えたということができよう。この学校は、当時としてはかなり充実した教育カリキュラムを備えており、イランの現代詩人たちのなかでもパルヴィーンほどその幼少時代にこのような恵まれた教育を受けたものは稀である。
この女学校の卒業記念講演として、パルヴィーンは「女と歴史 زن و تاریخ Zan o tārīkh」と題する講演を行った。書簡等の散文による文書がパルヴィーンにはあまり残されてはいないため、この講演録は彼女の手による数少ない散文として貴重であるばかりでなく、彼女の女性の地位向上に対する考え方がどのようなものであったのか、また、若き日のパルヴィーンの思考様式などがうかがい知れる資料となっている。
パルヴィーンは、学校を卒業して10年後の1934年に父のいとこと結婚し、ケルマーン・シャー(کرمانشاه)の夫の家に嫁いだが、結婚による拘束に嫌気がさして、2か月半後には夫のもとからテヘランの父の家に戻り、その後わずか1年余りで離婚してしまった。
パルヴィーンを是非、王妃の家庭教師にという王(شاه)の意向を受けて、1938年にイラン教育省は、学位3等を授けて彼女を王室にむかえようとしたが、彼女は、「私よりもこの任を受けるのにふさわしい者がたくさんいるはず」という理由でそれを拒否した。
1941年にパルヴィーンは、全く突然の死にみまわれた。彼女の兄のアブール・ファトフ・エーテサーミーによると、当時彼女が患った病気に対する医師の治療ミスが原因で彼女は死にいたったとされているが、彼女の死に関してはっきりしたことはわかっていない。彼女の遺体は、当時王(شاه)の新しい宮廷がおかれたコムにあった一族の墓地の父の墓の横に埋葬された。
パルヴィーンの墓石には、生前彼女が墓碑銘のためにしたためておいた"重い墓石(لوح سنگین)"と題する詩が刻まれている。

彼女が卒業し、教鞭をとった母校で行われた追悼会の席上、そこの校長で、学校の創設者でもあるシュラー(S.chuller)は、パルヴィーンを次のように評価している。
「イラン人に言わせれば、パルヴィーンの心は明るく澄んだ鏡でした。そこには彼女の真の姿が映っていたのです。パルヴィーンと、彼女によって成された人生の意味と目的の理解は決して忘れられることはないでしょう」
また、パルヴィーンと親しかった友人の一人であるソルール・メヘキャメ・マフサスは、パルヴィーンの人格について次のように書いている。
「パルヴィーンは清い性格と清い思想を備え、上品で、温厚で、品行方正で、自分の愛する友達に対して友情の上では控えめでこそはあったが、正義と愛情の面では誠実性を示した。彼女はこのように、概して賢明さを示し、口数少なく、その分考えることをした。社会の中に静かに溶け込み、自制心を失うことはなかった。決して自らの文学の秀逸性や人格上の美徳を吹聴するようなことはせず、このようなパルヴィーンの安らかさや静けさが、時に狭量な人々に彼女の文学的美点や道徳性についての嫌疑を抱かせもした。が、一貫してパルヴィーンは完全性と美徳を備え続けていた。彼女は天使(ミーカーイル ميكائيل)のようにこの世に生まれ、天使(イズラーイール عزرائيل)のように去っていったのである」
パフラヴィー体制下の新生イランは、国内の婦人の地位を飛躍的に向上させ、彼女たちは外被(チャードル: چادر) を完全に脱ぎ捨て、大胆に公衆の面前にその姿を現し、日常生活においても、男性と並んで練り歩くまでになった。詩の分野に於いても数人の女流詩人が登場し、世評を博した。
彼女は、当時の女性解放運動には全く参画しなかった。多数の女性の地位の向上は、彼女とは異なる階層の人の活動に委ねるべきだという考えを彼女が持っていたためである。
彼女は早くから詩をつくり始めた。彼女の詩が、父の編集した『バハール:بهار』に初めて載ったとき、それを読んだ人々は、それが男性の詩人の作詞かと思ったという。
約五千句を含む彼女の詩集の初版は、1935年にテヘラーンで出版された。出版は、父ユースフ・エーテサーミーの手で印刷まで全てが行われた。実際のところ、もう少し早い時期にパルヴィーンの作品は詩集としてまとめられていたのだが、その中にはさきに取り上げた自らの結婚生活を悔やむ詩が含まれていたので、パルヴィーンの離婚を待って出版が行われたわけである。序文はM・バハールによって書かれ、彼は彼女の『涙の旅( سفاره اشک)』ひとつとりあげるだけでも、彼女をペルシア詩人のトップ・ランクに位置付けることが可能であるとしている。