ミハイロフは、地元のヴァルナで、M.C.ハマーの名をとった「The Hammer」という名前で活動を始め、Hamburger 1というグループを結成した。
1994年にミハイロフの属するグメニ・グラヴィ(Гумени Глави / Gumeni Glavi)のデビュー・アルバム『Квартал No. 41』(Kvartal No. 41)が発売され、ブルガリア音楽プロデューサー協会の基準で4xプラチナム・アルバムに相当する12万枚という驚異的な売り上げを記録した。しかし、1995年の2枚目のアルバム『Гуми втора употреба』(Gumi vtora upotreba)は前作ほどのヒットにはならなかった。
これらの2枚のアルバムを発売した後、1997年にはDJディドD(DJ Dido D)がグループに加わり、その後発売された『За повече пари』(Za poveche pari)、『За още повече пари』(Za oshte poveche pari)は、ブルガリアのヒップホップ史上に残る名作となり、グループはブルガリア国内で数多くのコンサートをこなしたが、その後グループ内での対立を経てグメニ・グラヴィは解散し、ミハイロフはソロでの活動を始める。
ミショ・シャマラとしてのソロでの活動は、シングル「Фенки, фенки」(Fenki, Fenki)のヒットとともに始まった。これに続くアルバム『Мой』(Moy)は9万枚を売り上げるヒットとなった。2002年のこの成功に引き続き、ミショ・シャマラはVanko 1とともに独自レーベルのR&Bレコーズ(R&B Records)を設立し、Vanko 1との共演アルバム『Голямата комбина』(Golyamata Kombina)は20万枚を売り上げた。その後Vanko 1は売春活動への関与の疑いで逮捕され、懲役12年を言い渡された(その後2008年に釈放されている)。しかし、Konsa、100 Kila、Benjamini、Loshiteといったシャマラの舎弟たちは次々にヒット作を作りあげ、シャマラ本人もまた積極的に活動を続けた。2003年にはブルガリアのヒットチャート首位に立ったヒット曲「Трудно се сбъдва всяка мечта」(Trudno se sbadva vsyaka mechta)を収録した自身のアルバム『Трудно се сбъдва всяка мечта』(Azbukata na zhivota)をリリースした。2006年のアルバム『Обичай ближния и ближи обичания』(Obichay blizhniya blizhi obichaniya)は、スナイパー・レコーズ(Sniper Records)を非難する「Гнусният Брадан」(Gnusniyat Bradan)や、KonsaやOGI Dogとの共演曲「Един ден се напих」(Edin den se napih)などを収録している。
2007年、芸名をミショ・シャマラからビッグ・シャーに変更し、ユニバーサル・レコーズと契約、Virginia Records / ユニバーサル・レコーズの傘下に、新しくFrontline Hustleを設立した。2008年、クルーシャル・コンフリクト(Crucial Conflict)やドラッグ・オン(Drag-On)などのアメリカ合衆国のアーティストとの共演曲を収録したアルバム『Хляб и Амфети』(Hlyab i amfeti)を発売した。2009年、リラーナの楽曲「Dime Piece」で、アメリカのベテラン・ラッパー、スヌープ・ドッグとの共演を果たした。