ピアス・バトラー
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ジョン・コルホーン(二期目)
| ピアス・バトラー | |
|---|---|
| アメリカ合衆国上院議員 サウスカロライナ州選出 | |
| 任期 1789-1796, 1802-1804 | |
| 前任者 | 空席(一期目), ジョン・コルホーン(二期目) |
| 後任者 | ジョン・ハンター(一期目), ジョン・ゲイラード(二期目) |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1744年7月11日 アイルランド、カーロウ県 |
| 死没 | 1822年2月15日(77歳没) ペンシルベニア州フィラデルフィア |
| 政党 | 連邦党, 民主共和党 |
| 専業 | 軍人, 農園主 |
| 宗教 | 米国聖公会 |
ピアス・バトラー(英: Pierce Butler、1744年7月11日-1822年2月15日)は、アメリカ合衆国サウスカロライナの軍人、農園主および政治家であり、アメリカ合衆国憲法に署名した一人としてアメリカ合衆国建国の父の一人として認められている。サウスカロライナを代表して大陸会議とアメリカ合衆国上院に出席した。
バトラーはアイルランドのカーロウ県で生まれ、1758年にイギリス海軍の士官としてアメリカに渡った。フィラデルフィアでのアメリカ合衆国憲法制定会議にサウスカロライナ邦代表として出席しており、驚くべき対照をなす人であった。1772年まではイギリスの議会に対する植民地の高まりつつある抵抗を抑えることが任務のイギリス軍部隊にあって高級将校であった。実際に彼の部隊の分遣隊、第29歩兵連隊が1770年のボストン虐殺事件で発砲しており、それによって植民地とイギリスとの間は劇的に緊張感を高めた。しかし、1779年までに、バトラーはサウスカロライナの民兵隊士官となっており、その首に懸賞が掛けられてもいる男となって、侵入する赤服(イギリス軍の制服)と戦うアメリカ軍を組織化していた。イギリス軍がサウスカロライナを占領しているときはかなりの量の不動産や動産を失ったが、独立戦争の終結時点でロイヤリストと和解し、以前の敵との友好的な関係を新たに結ぶことを先頭に立って要求した。バトラーは荘園に生まれて貴族的なところがあったが、辺境の人や貧窮化した西部の開拓者のために指導的な代弁者となった。最終的に愛国者であるバトラーは、アメリカ合衆国憲法に関する議論が行われている間も普通の人の権利を常に強くまた雄弁に提唱する者であり、南部植民地の大農園所有者で政治的かつ社会的特権階級に属していた。1793年時点で500人のアフリカ系アメリカ人奴隷を所有しており、バトラー島のプランテーションやセントサイモンズ島の綿花プランテーションで働かせていた。
この魅力ある経歴の持ち主の求心力は、その強く忍耐力有る民族主義的感覚であった。バトラーはアイルランドの貴族であり、アメリカ合衆国建国時13州の恒久的結合の概念を旧世界に受け入れさせるときにその繋がりを使った。彼自身の軍隊と政治の世界での経験により、政治と経済を安定させる基盤としての強い中央政府が、彼自身の社会階級や承認された国だけでなく、あらゆる階級の市民やあらゆる国の権利を守るために不可欠であると確信するに至った。
パトリオット
ピアス・バトラーは、第5代クローグレナン準男爵でアイルランド議会議員リチャード・バトラー卿の三男であった。イギリスの郷士は伝統的に下の息子達を軍隊あるいは教会に送り込んでおり、バトラーの父も例外ではなかった。当時の名誉を重んずるやり方として、父は息子のために第22歩兵連隊の士官職を金で購入した。バトラーはその後のイギリス軍における経歴の中で、軍事的な技術と強力で富裕な両親の長所を表した。1758年、所属する連隊がフレンチ・インディアン戦争に参戦するために北アメリカに派遣され、フランスからカナダを取り上げることになる作戦に加わった。1762年にアイルランドに戻る前に、第29歩兵連隊に転籍となった。
イギリス帝国軍とその同盟者の圧倒的な勝利によってフランスの北アメリカにおける領土主張は終わり、母国のアメリカ植民地に対する関係がその性格を大きく変えることになった。戦争中にカナダを占領し新しい土地を勝ちとったイギリスの議会は北アメリカでは初めて大部隊の守備兵を恒久的に駐屯させる命令を出した。イギリス政府は戦争で重い負債を背負い込んだので、議会は植民地に新しい税を課することで守備隊の経費を賄う方法を選んだ。アメリカ植民地の人々は守備隊の必要性について議会とは意見を異にし、それぞれ地方の民兵隊で植民地を防衛できると主張した。1765年に始まった印紙法などの新税にも反対した。
当時、バトラーの連隊はノバスコシアで守備任務に就いていたが、バトラー自身高まりつつある論争に巻き込まれないでいることができなくなった。1768年、マサチューセッツにおいてイギリス議会の課した税金に対する抗議が激しくなり、ロンドンは第29歩兵連隊に、第14歩兵連隊と共にボストンに進駐して国内の治安を守るよう命令を出した。1771年、「ボストン虐殺事件」の1年後、少佐になっていたバトラーは1月10日にメアリー・ポリー・ミドルトンと結婚した。メアリーはサウスカロライナの富裕な農園主で指導者のヘンリー・ミドルトンの娘であった。この結婚でバトラーは新しい人生を歩むことになった。第29歩兵連隊が1773年にイギリスに帰還するよう命令を受けたときに、退役する決心をした。士官の職を売りその金を使ってサウスカロライナの海岸地域でプランテーションを購入し、明らかに容易に南部土地所有者のライフスタイルを採用した。軍隊の時に学んだ管理能力は疑いもなく有益であり、その所有する土地の広さを1万エーカー (40 km2)以上にまで拡げた。その拡張する事業を支えるために小さな沿岸用船隊まで作り始めた。
1775年にイギリスと植民地の間で戦争が始まったとき、バトラーは元イギリス軍の士官数人(後の将軍となるホレイショ・ゲイツ、チャールズ・リーおよびリチャード・モントゴメリーなど)と共に、アメリカ側に賭ける道を選んだ。バトラーの場合、その事業がうまく利益を上げていたことと、サウスカロライナにおけるパトリオットの運動でミドルトン家が重要な役割を果たしていたことが、その決断に影響した。バトラーの義父は第一次大陸会議の議長を経験しており、義兄弟はアメリカ独立宣言の署名者になった。バトラー自身は地元の選挙に出馬してもその愛国者的感情を表明する時間があまり無かった。隣人達がサウスカロライナ邦議会議員に選出した1776年に公職を始め、この議員職は1789年まで務めた。