フレデリック・セシジャー (第2代チェルムスフォード男爵)
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経歴
1827年5月31日、後に初代チェルムスフォード男爵に叙されるフレデリック・セシジャーとその妻アン・マリア・ティンリングの間の長男として生まれた[1][2]。
イートン校を卒業[2]。1844年に陸軍に入隊。1850年にはグレナディアガーズの大尉(Captain)となる[2][1]。1854年のクリミア戦争に従軍し[2]、1855年にはセヴァストポリ包囲戦に参戦した[1]。1858年に第95歩兵連隊の中佐(Lieutenant-Colonel)に昇進した[2][1]。
インド大反乱の鎮圧戦に参加し、1861年にはインド高級副官代理に就任。1863年には名誉進級大佐(Brevet Colonel)になる[2][1]。1867年から1868年のエチオピア侵攻にも従軍した[2]。1868年から1877年にかけてはヴィクトリア女王の副官(Aide-de-Camp)を務めた[2]。1869年から1874年にかけてはインド高級副官に就任[2][1]。1877年に少将(Major-General)に昇進し、オールダーショットの第1歩兵旅団の指揮官となる[2][1]。
その後、大英帝国植民地南アフリカに赴任し、1878年から1879年にかけて喜望峰総督(Lieutenant-Governor of the Cape of Good Hope)を務めた[2][1]。1878年10月には父の死によりチェルムスフォード男爵位を継承し、貴族院議員に列する[3]。1879年1月には英領ナタール植民地の高等弁務官サー・ヘンリー・バートル・フレアの命を受けてチェルムスフォード率いるイギリス軍がズールー王国へ侵攻した。しかしイサンドルワナの戦いで1600人もの戦死者を出して敗走。現地英軍は危機的状況に陥ったが、4月から5月にかけてサー・ガーネット・ウォルズリー将軍率いるイギリス本国からの援軍が到着。総指揮権はウォルズリーが握ることになったが、チェルムスフォードはその部下としてズールー王国侵攻の陣頭指揮を執った。7月までにズールー王国首都を陥落させ、国王セテワヨ・カムパンデを捕虜にすることに成功した[4][5]。
その後は名誉職に多く在職し、1884年から1889年にかけてはロンドン塔管理副長官、1898年から1900年にかけてはシャーウッド・フォレスターズ名誉連隊長、1900年から1905年にかけてはライフガーズ第2連隊名誉連隊長を務めた[2][1]。
階級は1882年に中将(Lieutenant general)、1888年に大将(General)に昇進している[2][1]。
人物
栄典
家族
1867年にイギリス陸軍少将ジョン・ヒースの娘アドリア・ファニー・ヒース(1846年-1926年)と英領インドで結婚した。彼女との間に以下の6男を儲けた[1]。
- 長男フレデリック・ジョン・ネイピア・セシジャー (1868年-1933年) - 政治家。第3代チェルムスフォード男爵を継承。インド総督を務め、チェルムスフォード子爵に叙される
- 次男パーシー・マンスフィールド・セシジャー (1869年-1959年)
- 三男ウィルフリッド・ギルバート・セシジャー (1871年-1920年) - 外交官
- 四男ハロルド・ラムスデン・セシジャー (1872年)
- 五男エリック・リチャード・セシジャー (1874年-1961年) - 陸軍中佐
- 六男アルフレッド・サリバン・セシジャー (1880-1889)