ブルフ

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10世紀の『ブルフ割当表英語版』に名が挙げられているブルフの地図。

ブルフ(古英語: burhIPA: [burˠx])またはブルグ(古英語: burg)は、アングロ・サクソン期の防御施設または防備集落である。9世紀、ヴァイキングによる襲撃と侵攻を受けて、アルフレッド大王はこうした攻撃に対抗するため、ブルフと道路からなる防衛網を整備した。新たに築かれたものもあれば、ブリテンの鉄器時代丘砦英語版ローマ時代のブリタンニアの跡地に置かれ、元の防御施設の資材を利用したものもあった。ランデンブルフ英語版、すなわち中世のロンドンのように、多くは河川沿いに位置していた。これは、国内での補給を容易にするとともに、ロングシップのような浅い喫水の船で侵入する攻撃者が、王国の内陸部へ進むのを制限する狙いがあった。

ブルフはまた、商業中心地、時には行政中心地としても機能した。その防御施設は、イングランド各地の王立造幣所を守るためにも用いられた。

Byrig

burg
burh
beorh
ベーオウルフ』の作者は、burgburhbeorhのような語を用いている。これらは一つの語根に由来するが、すでに三つの異なる意味を持っていた。

古英語のburhburgは、ゲルマン祖語*burg-s再構される語から発展した形である。この語は、*berg-an[1]、すなわち「保護のために閉じ込める」を意味する動詞同根語である[2]。これらはドイツ語Burgオランダ語burchtスカンディナヴィア諸語borgと同根であり、英語では「borough」[1]、「burg」[3]、また特にイングランドのイースト・アングリア地方およびスコットランドでは「burgh」として発展した[4]

byrig[note 1]は、burhおよびburg複数形であり[note 2]、「砦」「防御施設」を意味した。また、与格形でもあり、「砦へ」または「砦のために」を意味した。後に「bury」や「berry」へ発展し、防御施設のそばにあるマナー・ハウス、大農場、集落を表す語として用いられた[5]

ここで扱うイングランドの施設に由来する名称に加えて、これらの語は、古英語先住ブリトン系地名の翻訳借用や異形として用いられることもあった。その中には、ブリトン語の*-dunonや、ウェールズ語のcaerが含まれ、ソールズベリーのような例がある。

背景

ウォリングフォード英語版のブルフの城壁。

ブルフはもともと軍事的防御施設として建設された。H・R・ロインによれば、ブルフは「中世イングランドのboroughおよび中世都市の発展において、きわめて重要ではあるが、一段階を示すものにすぎなかった」[6]。古いboroughの境界は、しばしば現代都市のborough境界にまでたどることができる。これらの大半は、アルフレッド大王による計画的な政策のもとで創設され、その政策は息子のエドワード長兄王、娘で「マーシア人の貴婦人」と呼ばれたエゼルフリーダおよびその夫であるマーシア太守エゼルレッド英語版のもとで継続された。マーシア年代記は、エゼルフリーダによる10か所のブルフの建設を伝えており、その中にはタムワーススタッフォードのような重要なものもあれば、現在では特定できないものもある[6]

一部は既存のローマ時代の構造物を基盤としており、一部は新たに建設された。ただし、他のものは後の時代に建設された可能性もある。アゼルスタンはこれらのブルフに貨幣鋳造権を与え、10世紀および11世紀には、ブルフの外で貨幣を打刻してはならないという厳格な規則が存在した。[7]

現在『ブルフ割当表英語版』として知られる10世紀の文書は、1897年にフレデリック・ウィリアム・メイトランドによってそう名付けられたもので、ウェセックスの30か所のブルフと、マーシアの3か所のブルフを挙げている。当時、マーシアは西サクソン王の支配下にあった。これらのブルフはすべて、地域をヴァイキングの襲撃から守るために建設された[8]

中世に自治都市としての地位を得たブルフは、チェスターブリッジノース英語版タムワーススタッフォードハートフォードウォリックバッキンガムモールドン英語版の8か所だけであった[9]。最大のものはウィンチェスターウォリングフォード英語版ウォリックにあり、ウォリングフォードとウェアハム英語版は最もよく保存された例で、現在も大規模な土塁が見られる。ウォリングフォードの約9,000フィート、約2,700メートルに及ぶ土塁の建設には、延べ12万時間以上の労働を要したと推定されている。ブルフの町は通常、規則的な街路配置も持っており、その一部は現在も残っている[10]。ブルフは、イングランドにおける都市生活の起源であったと広く考えられている。ほとんどの場合、アルフレッドによるブルフの再建は地名の変更を伴わなかった。これは、選ばれた場所がすでに何らかの防御施設であったためである[11]

建設

アルフレッドの首都ウィンチェスターにあったブルフを囲む防御城壁。ローマ時代の基礎の上に、中世初期および後期の工事が加えられている。

ブルフは、地域で使える資材や、守るべき集落・地域の規模に応じて、さまざまな方法で造られた[12]

しばしば、ブルフは既存の防御施設の跡地に建てられた。時には、ウィンチェスターエクセターヨークバーグ・キャッスル英語版ポーチェスター英語版ドーバーのような町で、古いローマ時代の城壁が単に修復された。また、ドーバーのように、鉄器時代の古い砦の跡地に建設し、古い堀や土塁を利用することもあった[12]

しかし、多くのブルフはまったく新しい防御拠点であり、海岸、港の近く、または道路と交易路を見下ろす戦略的地点に建設された。たとえばオックスフォードウォリングフォード英語版クリックレード英語版ウェアハム英語版では、長方形の配置を持つ大規模な新都市が平地に建設された[12]

伝統的に、ブルフはまず、前面に堀を備えた大規模な土塁群として築かれた[12]。土塁には通常、木材で外装と補強が施されていた[13]。その上には、高さ約10フィート、約3メートルに達する木製の杭柵が設けられ、歩廊も備えられていた。タムワースのような町では、時間の経過とともに城壁が崩れ、外側へ押し出され、堀と土塁が劣化した。この問題を解決するため、土塁の前面には石が貼られ、防御力がさらに強化され、耐久性も向上した[10]

目的

主な目的は、港または町、ならびに周辺の農場、村、小集落を防御することにあった。『アングロサクソン年代記』によれば、アルフレッドは一連のブルフを建設し、それらは『ブルフ割当表』に30か所以上列挙されている。イングランドの農場や村がブルフから約20マイル、約32キロメートルを超えて離れないようにすることが、アルフレッドの意図であったとみられる。彼は、ヘレパス英語版(herepath)として知られる、よく整備された軍道網を建設し、ブルフ同士を結びつけた。これにより、住民はそれぞれのブルフへ速やかに避難できた。ヘレパスは、アルフレッドの軍が敵と交戦するために素早く移動することも可能にした。また、必要であれば、他のブルフから増援を容易に招集できることも意味した。ライアン・ラヴェルは、それぞれのブルフには、ヴァイキングに対する作戦のために即応可能な騎馬部隊が存在したと考えている[14]。おそらく、ウェセックスの高い丘の上には狼煙の仕組みがあり、侵入者について事前警告を発していた[14]。このように、ブルフを中心とする防御施設と防衛体制のネットワークにより、アルフレッドはヴァイキングが戦略的に重要な町や港を占領することを困難にできた[14]

ブルフはまた、交易と生産が行われる安全な場所として、経済中心地の役割も持っていた。武器庫、鍛冶場、王立造幣所、交易所はいずれもブルフの内部に置かれた。これらは、アングロ・サクソン軍が野戦中に利用する補給拠点として用いられ、軍に武器、替え馬、食料を継続的に供給できるようにしていた[15]

アルフレッドの治世には、王のフュルド英語版(fyrd)、すなわち王直属軍と、地方のフュルド、すなわち地方防衛軍との間に明確な区分があった。地方フュルドは自らのブルフの建設と防衛に責任を負い、王直属フュルドの構成員は王の指揮下で軍務に就いた[16]

関連項目

脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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