趣味
人間が自由時間に好んで習慣的に繰り返し行う行為
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趣味(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。
- 人間が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。
- 物の持つ味わい・おもむきを指し、それを観賞しうる能力をもさす。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい / わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。→#美学用語の「趣味」
- 人間が熱中している、または詳しいカテゴリーのこと。
アマチュア
英語のhobbyとの違い
英語のネイティブ・スピーカーの感覚では、"hobby"とは切手などのコレクションや園芸・美術などの活動を継続するような「向上心をもちながら、ひとりで長期にわたって打ち込んできた活動」というニュアンスがあり、自分が好きで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄として日本人が「趣味」としてあげる「読書」「映画鑑賞」「スポーツ」などは"hobby"に含まれない[1]。
美学用語の「趣味」
趣味者
趣味と社会階級
趣味はそれぞれ個人が自由に選択しているものだというのが一般的な理解であったが、趣味と社会階級は密接に繋がっていて、「趣味は階級を刻印する」と提唱したのは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューであり、1979年の著者『ディスタンクシオン』において示された[4]。
趣味は各々の所属する社会階級と不可分であり、その影響を強く受けながら形成され、かつ社会階級間で趣味を介した、各々の卓越化を巡る「象徴闘争」までもが繰り広げられているのだと彼は主張した[5]。ブルデューによれば「あらゆる好みは嫌悪」であり、「趣味の選択」とは「選択しなかった趣味への否定的態度」を内包しているとし、「自分(我々)の選択が正しいのだ」という階級的な戦略、つまり「卓越化を巡る闘争」として解釈している[5]。
ハイカルチャー(上位文化・高級文化)、ポピュラーカルチャー(大衆文化)など、音楽や文学といったあらゆるカテゴリには「客観的」に設定されている価値の階層性があり、私達はそのような階層性を無意識のうちに把握しつつも、その階層性における上位を狙った行動をとるとは限らない[5]。例えば、「クラシックの方がJ-POPなどと比べて何となく高尚な音楽だ」という自覚があっても、往々にして「クラシックは堅苦しい」とか、単純に「良さがわからない」とかという、否定的判断が下される[5]。私が(クラシックやロックを聴かずに)J-POPを聴くとき、私は(クラシックやロックを聴かずにJ-POPを聴くという)私の立場を確保して肯定している、ということであり、そしてこの「私の立場」とは、個人に留まるものでなく「私」の所属する社会階級全体の「卓越性」という含意がある[5]。私達の趣味とは私達の所属する社会階級における代表性がある、というのがブルデューの主張である[5]。
あらゆる状況下における自らの行動を確定させる原理とは、当人がどのような社会階級(社会空間における位置)で生まれ育ち、その階級における「卓越化の感覚」を身に着けたかによって形成されるとし、これをブルデューは「ハビトゥス」と呼んだ[5]。すなわち、ブルデューは統一性の偏見を偏見として退けることなく、「ハビトゥス」という概念を導入することによって「階級戦略」として扱ったのである[5]。
なお、ブルデューが同時に明らかにしたのは、フランスのエリートたち(支配階級)は、クラシックやオペラ、美術などの正統文化を愛好するが、大衆が好む文化には排他的であるというものであったが[6]、それから時を経て、アメリカの社会学者リチャード・A・ピーターソンらは、音楽趣味の分析から、アメリカでは文化テイストと社会階級の関係が1990年代に入り変化し、社会的地位の高い人々ほど、クラシック音楽もロック音楽もというように、文化的にオムニボア化(雑食化)しているという分析結果を発表した[4]。これは、大衆が発言力・購買力をつけ、大量消費市場を背景に文化的市場の基準を塗り替えていったことから、ポピュラーカルチャーが中上流階級化(ジェントリフィケーション)したことに関連すると考えられている[7]。さらにその後、文化的オムニボアになることこそが、現代の新しい文化資本であるという主張をする研究者が複数現れて、現在までに世界各国でオムニボア仮説が検証されてきており[4]、趣味と社会階級の関係性が曖昧になりつつあることが示唆されている。