ポツダム広場
From Wikipedia, the free encyclopedia

ポツダム広場(ポツダムひろば、ドイツ語: Potsdamer Platz)は、ドイツの首都ベルリンのミッテ区にある主要な広場で、また交差点でもある。
広場の名は近郊都市のポツダムにちなむ。19世紀初頭までは、ポツダムからベルリンを結ぶ街道がここでベルリン市を取り囲む都市城壁(Zollmauer)に設けられた関税門「ポツダム門」をくぐっており、門の外は各方面からの街道が集まる交差点になっていた。これが現在のポツダム広場に当たる。1838年、ベルリンとマクデブルクを結ぶ鉄道のポツダム駅が設けられると、ポツダム広場はベルリンの市内交通の中心地へと変貌していった。20世紀初頭にはベルリン市電の路線が集まるほか、周囲にはホテルやカフェが立ち並んだ。

1920年代、30年代にかけて、ポツダム広場はヨーロッパ経済の中心地の一つだった。全盛期は1920年代でアレクサンダー広場とともにベルリンのナイトライフの中心だった。
ベルリンの多くの場所と同じように、第二次世界大戦の最後の年の激しい空襲と砲撃により建物の多くは破壊された。戦争終結後、占領軍(連合国)によってベルリンは分割され、ポツダム広場はアメリカ軍、イギリス軍、ソビエト軍の占領地域の境界になった。後に、東西陣営の冷戦時代には、ソビエト占領地域は東ベルリンと、西側占領地域は西ベルリンと呼ばれるようになった。ポツダム広場周辺のビルはいくつかは修復され再利用されていたが、廃墟のままの建物も多数残っていた。東ドイツの政府機関が入居していたかつての商業ビル・コロンブスハウスは、1953年の東ベルリン暴動で反ソを訴える群衆に焼き打ちされ炎上した。
当初は東西ベルリン間は往来も盛んであったが、この通行の自由さを利用して東ドイツの国民が西ベルリンを通じて西ドイツへと亡命、西側勢力の経済力を背景とした西ドイツマルク高による労働力や通貨の流出が相次ぐ事態となり、東ドイツは国民の流出を止めるために西ベルリンの封鎖を考えるようになった。1961年8月に東ドイツ政府は東西ベルリン間の境界を封鎖した。これによりポツダム広場は市民にとって行くことができない境界になってしまった。1961年8月31日に都市の中をつらぬく境界線に沿ってベルリンの壁が構築され、ポツダム広場は二つに分断された。壁の周囲は無人地帯となり、残っていた廃墟も解体されて更地と化した。かつてのにぎやかな交差点は荒地になってしまったのである。


