デ・ララベッティは五人兄弟の一人として聖トーマス病院で生まれ、ロンドン南部バタシーで育つ。母親はアイルランド系であり、生涯の大半をラベンダーヒルで過ごした。父親はビルバオ出身のバスク人であり、しばしば家を留守にした。1934年ウェスト・サセックスアランデルへ疎開し、また1940年サウス・ヨークシャードンカスターの鉱山の村アスカーンへとさらに疎開する。第二次世界大戦の終戦と共にロンドンへ戻り、イレブンプラス・テストに落ちるもクラッパム・セントラル・セカンダリ・スクールを卒業する。この学校でデ・ララベッティを教えた教員には、大戦に参加した元兵士が含まれ、世界を良くしていこうと決意する彼らにデ・ララベッティは多大な影響を受ける。後にこの経験を元に Journal of a Sad Hermaphrodite (1992) が書かれる。
若年
16歳で卒業後、ロンドン南部アールスフィールドマグダレン・ロードの公立図書館の司書として働き始める。1952年
バタシー・ポリテクニックに参加し、大学入学を目指しGCE-A Levelを取るための勉強を始める。この過程で、主に財政的な理由により9年間もかかり、デ・ララベッティは様々な仕事を経験する。英国博覧会の開催中は、バタシー・パークフェスティバル・ガーデンで3Dシネマの映画映写技師を務めた。この時の経験は A Rose Beyond the Thames (1978) に書かれている。また、後にドキュメンタリー映画のカメラマンやフランスやモロッコで旅行ガイドとして働く。