マーダブ・クマール・ネパール
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
生い立ち
ネパール南部、ラウタハット郡ガウルのバラモン階級の家に生まれる。祖先は200年以上前にインド、ビハール州から移住してきた。ネパール語が母語であるが、英語、ヒンディー語、マイティリ語、ボージュプリー語にも通じている[1]。本来の姓は「ウパディヤイ」であったが、バラモン階級であることが分かる姓なので、カースト制度に反対する意味で改名した。
政治活動
1969年以来、共産主義運動に参加、「スボード」「スニル」「ラジャン」「ビベク」などの偽名で地下活動を行う。
1971年、ネパール革命機構(マルクス・レーニン主義派)の地区委員会のメンバーとなる。
1975年6月7日から翌日にかけてビラートナガルで開かれた全ネパール共産主義革命調整委員会(マルクス・レーニン主義派)の大会で書記局員に選出される。
1978年、ネパール共産党マルクス・レーニン主義派(通称マレ)の設立に参画し、政治局員となる。
1990年の民主化運動(ジャナ・アンドラン)では指導的役割を果たした一人である[2]。
1991年、ネパール共産党マルクス主義派とネパール共産党マルクス・レーニン主義派の合同による、いわゆる統一共産党(ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派、略称UML 通称エマレ)の結成に参加。
1993年、初代書記長だったマダン・クマール・バンダリが謎の自動車衝突で死亡して以後、15年にわたり、統一共産党の書記長を務めてきた(マン・モハン・アディカリはその上の議長だった)[3]。
統一共産党の少数与党によるアディカリ内閣(1994年11月30日-1995年9月11日)では副首相兼外相兼国防相を務めた[4][5]。1999年にアディカリが死去した後は書記長の身分で統一共産党党首を務めた。
彼は毛派による内戦は軍による弾圧によるのではなく、話し合いで解決するべきであると主張した[4]。
2001年、 ネパール王族殺害事件の後、ギリジャー・プラサード・コイララ首相の辞任を要求[4]。反政府抗議活動に対する弾圧の中で逮捕される。
2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)では7党連合の一員として活動し、ギャネンドラ国王の独裁政権を倒した。
2008年4月12日のネパール制憲議会選挙ではカトマンズ第2選挙区およびラウタハット第6選挙区に重複立候補し両選挙区で落選した。ネパールは統一共産党の敗北の責任をとって書記長を辞任し、党国際局長を務めた。後任の書記長にはジャラ・ナト・カナルが就任した[6]。統一共産党はネパールを一時初代大統領候補に挙げたが、毛派の協力が得られず取りやめた。
2009年1月13日、プラチャンダ内閣の指名により、制憲議会議員となり、憲法制定委員会議長に就任した[7]。
2009年2月の統一共産党第8回党大会では一旦、議長に立候補を表明したが、後にK.P.シャルマ・オリの支持に回った。結果的にオリはジャラ・ナート・カナールに敗れた[8]。