マッキ M.5
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第一次世界大戦中の1915年5月27日、オーストリア=ハンガリー帝国軍によってイタリアのヴェネツィアに爆撃が行われた際、イタリア軍は1機のローナー L型複葉飛行艇を鹵獲した[5][6]。
機体を研究したイタリア軍は性能を高く評価し、自国のニューポール・マッキ社でL.1飛行艇としてコピー生産を開始し、さらに独自の改良型としてL.2、L.3(のちにメーカー名に因みM.3に改名)を順次開発・製造していった[4][5][6]。M.3は200機以上が製造され、その汎用性の高さから偵察・爆撃・戦闘と様々な用途で活躍を見せた[2]。
M.3までは複座の汎用飛行艇だったが、大戦中期には敵飛行艇を迎撃するための戦闘飛行艇の要求が高まったことから、M.3をベースにした単座戦闘飛行艇の開発が1917年初頭から始められた[1][3]。設計技師はカルロ・フェリーチェ・ブンゾとルイージ・カルツァヴァラの2名で、同年晩春には試作機が初飛行し、夏にM.5戦闘飛行艇として完成した[1][3]。
設計

単座化により機体は小型・軽量化されており、これに伴って最高速度も向上した[1][4]。エンジンは160馬力のイソッタ・フラスキーニ V.4Bを機体中央の両主翼間に搭載しており、後方に向けてプロペラのある推進式であった[5][3]。このエンジンは出力は大きいとは言えなかったが、最高速度は時速189キロメートルと陸上戦闘機とほぼ同等を発揮することができた[1][3]。なお、一部の機体はのちにエンジンを250馬力のイソッタ・フラスキーニ V.6に換装している[1]。
武装としては、機体前方に7.7ミリのヴィッカース機関銃または6.5ミリのフィアットM14機関銃が2丁搭載されていた[1]。
運用
本機は第一次大戦中にイタリア海軍の航空部隊に配備されたが、配備時期については1917年11月から配備開始とする資料[1]と、1918年初めからとする資料[3]がある。
陸上戦闘機とも渡り合えるだけの機動性を持っており、オーストリア・ハンガリー帝国軍の飛行艇や戦闘機を相手にアドリア海上空で空中戦を行い、終戦までにオラツィオ・ピエロッツィ大尉(7機撃墜)、フェデリコ・カルロ・マルティネンゴ大尉(5機撃墜)、ウンベルト・カルヴェッロ中尉(5機撃墜)ら3名のエース・パイロットを出すなどの活躍を見せた[1][4][7]。
大戦終結後も運用は続けられ、1923年にイタリア空軍が創設された時点でも65機のM.5が配備についており、その後も数年間は現役であった[3][7]。