マルセル・ロッズ
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国立高等装飾美術学校を卒業し、その後エコール・デ・ボザールを1923年に卒業して建築の学位を取得した。1928年と1940年、2度の世界大戦の間、彼はフランス空軍に所属。そこで航空学への情熱を培う。
彼はウジェーヌ・ボードゥアンとのコラボレーションで多くの建物を手掛けるが、特に建物建設におけるプレハブの使用を開発していく。

1930年のシャンデゾワゾーのバニューまたはドランシーのシテ・デ・ラ・ドゥラミュエットなど1932年から1934年にかけての一連の建物ではデザインの責任者として住居を手掛けていった。1930年代に現代芸術家連合(UAM)のメンバーとなった彼は、可動式の外壁を備えたサレネス野外学校やメゾン・デュ・プープル・ド・クリシー(エンジニアのウラジミール・ボディアンスキーとジャン・プルーヴェと協働で制作)など、建物をより軽量にする材料の選択などでチームに影響を与えてきた。非物質に向かう傾向の建築という理想像を掲げ、それを1935年ローラン・ギャロス空港のクラブハウスで示されている。
1940年から1944年の間、ル・コルビュジエとともに建築リノベーション協会(ASCORAL)の一員となる。戦後、彼はドイツ人のアドルフ・バイエル、エルザ・スンドリング、ジェラルド・ハニングとともにフランスの軍事政権のために都市を再建する計画セクションで働く。ドイツのマインツやソットヴィル=レ=ルーアンなどの戦災復興の都市計画に取り組む。ドイツのマインツ新都市は爆撃によって80%以上を破壊されていた。しかし彼のアイデアは嫌われて、1948年にパリに戻り、そこで異なるコミュニティのための主要なプロジェクトで独立した建築家として働いていく。
1950年代初頭、オーギュスト・ペレの後任として、パリ国立高等美術学校の建築ワークショップの責任者を務めた。そこ学生のためのジャン・ルノディー、レニー・ゲイルステットらと航空と写真の教育に情熱を注ぎだし、自身の建築成果の航空写真を大量に撮りはじめる。これらすべての写真とそのアーカイブは、フランス建築研究所によって保管されている。